らっしゃるのよ。私はいとしくて涙が出てよ。駆けって行って、かえでさんに何か用事はありませんかと言ったら、どうぞこれを頼みますと言って手紙を渡して、あわてて、向こうへ行っておしまいなすったわ。
かえで あの時あなたに会わなかったら、夜通しでもうろうろしていただろうと言っていらっしゃいました。
浅香 あのかたなら、そうしかねなくってよ。(ほほえむ)だけど私はいいお役目が当たったものね。
かえで まあ。あんなことをおっしゃる。(ほほえむ)
浅香 (急に暗い顔をする)これから後はどうして会う気なの。
かえで (心配そうな顔をする)さあ。私はそれが心配でならないのよ。おかあ[#「かあ」に傍点]さんは今晩の権幕では、もうちょっとも外へは出してくれますまい。といって唯円様は宅《うち》へ来てくださる事はできないのだし。
浅香 お銭《あし》の都合をつけなくてはいけますまい。
かえで 唯円様はいくらお銭があっても、私はあのかたにだけはお銭で買われたくはないのよ。私はお客とは思いません。私は娘として取り扱いますときょうもお約束しましたのよ。自分を卑しいものと思ってはいけないとくれぐれもおっしゃったのよ。
浅香 ではあなたがお勤めをやめるよりほかに道はないのではないの。
かえで 唯円様は今にそうしてやるとおっしゃるのよ。
浅香 ふむ。(考える)あのかたに何かあて[#「あて」に傍点]があるのでしょうか。
かえで (不安そうに)どうなのですかねえ。
浅香 あのかたに誠心があっても、世の中の事はなかなか一筋に行かないものでね。
かえで あのかたは世間の事はかいもく[#「かいもく」に傍点]知っていらっしゃらないのよ。私のほうが分別があるくらいなのよ。
浅香 そうでしょうとも。
かえで あのかたはお師匠様に打ち明けて相談するとおっしゃるの。それがただ一つのたよりらしいのよ。
浅香 あの親鸞様に?
かえで えゝ。お師匠様は坊様は恋をしてはいけないとはおっしゃらないのですって。なんでも力になってくださるのですって。遊女だからといって軽蔑《けいべつ》はなさらないのですって。
浅香 何もかもわかっているかたとは善鸞様から聞いていますけれどね。
かえで ねえさん。私はどうなるのでしょうか。
浅香 さあねえ。お弟子《でし》たちにはいい人ばかりはいないそうですからねえ。
かえで ほんとに心細くなってしまうわ。
浅香 それにしても、そうなるまではどうして会う気なの。
かえで しかたがないから、唯円様が河原のほうから回って、石段の所で合図をしてくださる事になってるの、そしたら私が裏口から出て、お手紙を取り換えるお約束になってるのよ。手早くしないと、見つかるとたいへんだけれど、でもちょっとでもお顔が見られるわね。
浅香 そんなにしてまで会いたいの。
かえで ひと目だけでも。(間)唯円様は眠られない夜が多いのですって。私のようなものをでも、そんなにまで思ってくださるのですもの。
浅香 (しみじみと)それであなたも身も心もと思ったの。
かえで えゝ。(涙ぐみてうなずく)
浅香 (気を替える)うまく行きますよ。私はそれを祈ります。私が言ったのは、今急には行くまいと言ったのよ。いろいろとむつかしい事が起こるでしょうけれど、二人の心さえしっかりしていればきっと成就すると思うわ。辛抱が第一よ。
かえで どんなに苦しくても辛抱しますわ。
浅香 気が強くなくてはいけませんよ。私などはすぐに気が弱くなるからいけないのです。自分の幸福を守る事に勇敢でなくてはだめよ。皆はおとなしい人には勝手な事を仕向けて、その人のいのち[#「いのち」に傍点]よりも大切にしているものをでも造作もなく奪って行ってしまいますからね。そしてそれを義理だと言って無理にこらえさせますからね。善鸞様がいつも言っていらっしたっけ。義理を立て貫ぬく覚悟がない時には、なまなか義理を立てようとするとかえってあとで他人に迷惑をかけるような事になるって。善鸞様でも初め、恋人と心をあわせて、強く自分たちの幸福のために戦われたら、あとで皆を苦しめ、自分も泣かなくてもよかったのだわ。またいったん自分の幸福を犠牲にする気になったのなら、もう自分は死んでしまった者と思って、一生涯《いっしょうがい》さびしく強く生き通さなくてはならないのです。けれど優しい人はそうは行かないのね。初めは義理にからまれるし、後にはさびしさに堪えられないし。(間)あの人はほんとうに不幸な人だ。(間)あなたはまけてはいけませんよ。
かえで 私は一生懸命になりますわ。きょう唯円様もどのような困難にも戦って必ず勝利を占めようとおっしゃいました。ねえさんも力を貸してくださいね。
浅香 私はどんな事でもしてあげますわ。
かえで ねえさんの御恩は忘れません。(涙ぐむ)
浅香 私は親身の妹の
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