いは往生《おうじょう》の別の子細をも存じおるべしと心憎くおぼしめして、はるばる尋ねていらしたのならば、まことにお気の毒に思います。私は何もむつかしい事は存じませぬのでな。その儀ならば南都|北嶺《ほくれい》にゆゆしき学者たちがおられます。そこに行ってお聞きなされませ。
同行一 御謙遜《ごけんそん》なるお言葉に痛み入ります。なおさらゆかしく存じます。
同行二 北嶺一の俊才と聞こえたるあなた様、なんのおろそかがございましょう。
親鸞 北嶺南都で積んだ学問では出離の道は得られなかったのです。私は学問を捨てたのです。そして念仏申して助かるべしと善《よ》き師の仰せを承って、信ずるほかには別の子細はないのです。
同行三 それは真証でござりますか。
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一同不審の顔つきをしている。
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[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
親鸞 何しに虚言を申しましょう。思わせぶりだとおぼしめしなさるな。およそ真理は単純なものです。救いの手続きとして、外から見れば念仏ほど簡単なものはありませぬ。ただの六字だでな。だが内からその心持ちに分け入れば、限りもなく深く複雑なものです。おそらくあなたがたが一生かかってもその底に達する事はありますまい。人生の愛と運命と悲哀と――あなたがたの一生涯《いっしょうがい》かかって体験なさる内容を一つの簡単な形に煮詰めて盛り込んであるのです。人生の歩みの道すがら、振りかえるごとにこの六字の深さが見えて行くのです。(だんだん熱心になる)それを知恵が増すと申すのじゃ。経書の教義を究《きわ》めるのとは別事です。知識がふえても心の眼《め》は明るくならぬでな。もしめいめいがたが親鸞に相談なさるなら、御熟知の唱名《しょうみょう》でよろしいと申しましょう。経釈《きょうしゃく》の聞きぼこりはもってのほかの事じゃ。それよりもめいめいに念仏の心持ちを味わう事を心がけなさるがよい。人を愛しなさい。許しなさい。悲しみを耐え忍びなさい。業《ごう》の催しに苦しみなさい。運命を直視なさい。その時人生のさまざまの事象を見る目がぬれて来ます。仏様のお慈悲がありがたく心にしむようになります。南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》がしっくり[#「しっくり」に傍点]と心にはまります。それがほんとうの学問と申すものじゃ。
同行五 おそれ入りました。鈍《どん》な私たちにも
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