きざし》があきらかに感じられはじめた。わしが死ぬということが……虫の知らせだよ……(顔色が悪くなる)
勝信 お臥《よ》っていらっしゃいませ。(親鸞を助けて寝床に臥《ふ》させる)お苦しゅうございますか。
親鸞 うむ水を飲ませておくれ。
勝信 (湯飲みに水をついで親鸞に飲ませる)
親鸞 肉体的苦痛というものはだいぶ人間を不安にするものだ。地上のいちばん大きな直接な害悪だ。多くの人間はこの害悪を避けるためには、魂の安否を忘れてしまうほどだ。人間に与えられた刑罰だ。わしも断末魔の苦しみが気にかかる。わしはその苦しみに打ちかたねばならない。この最後の重荷を耐え忍ばねばならない。(額に玉のような汗をかく)何もかもじきにすむのだ。そのあとには湖水のような安息が、わしの魂を待っているのだ。
唯円 そしてひかり輝く光栄が?
親鸞 死はすべてのものを浄《きよ》めてくれる。わしがこの世にいる間に結んだ恨みも、つくったあやまちもみんな、ひとつのかなしい、とむらいのここちで和らげられてゆるされるであろう。墓場に生《は》えしげる草はきたない記憶を埋めてしまうであろう。わしのおかした悪は忘れられて、人は皆わしを善人であったと言うであろう。わしもすべての呪《のろ》いを解いてこの世を去りたい。みなわしに親切なよい人であったとおもい、そのしあわせを祈りつつ、さようならを告げたい。
唯円 (勝信と顔を見合わす)お師匠様、あなたは善鸞様をおゆるしあそばしますか。
親鸞 わしはゆるしています。
唯円 何とぞ善鸞様をお召しくださいませ。
親鸞 …………
勝信 (泣く)あなたの口ずからゆるすと言ってあげてください。
唯円 私の一生の願いでございます。お弟子衆《でししゅう》も皆それを願っていないものはありません。御臨終にはぜひとも御面会あそばさなくては、あとで善鸞様がどのようにお嘆きあそばすでしょう。私は十五年前にこの事を一度申し上げてから、きょうまで黙って来ました。その間一日もこの事を思わぬ日とてはございませんでした。絶えず祈っていました。今度ばかりは私の願いをかなえてください。あとに悔いの残らぬよう、すべてと和らいでくださいませ。それはあなたのただ今おっしゃったお言葉でございます。仏様のお心にかなうことでございます。末期《まつご》の水は必ず善鸞様がおくみあそばさなくてはなりません。この期《ご》に及んで私はもう
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