何も申し上げることはございません。(涙をこぼす)ただ安らかな御最後を。すべてと和らいだ平和な御臨終を…………
親鸞 (涙ぐむ)みなの勧めに従いましょう。
唯円 おうれしゅう存じます。(手をつきうつむく、畳の上に涙が落ちる)先日おたより申し上げておきました。きょうあたり御到着あそばすはずでございます。
親鸞 善鸞はこのごろはどうして暮らしていますか。
唯円 稲田で息災でお暮らしあそばされます。
親鸞 仏様を信じていますか?
唯円 はい。(不安をかくす)たいそうお静かにお暮らしあそばしていらっしゃるようでございます。
勝信 善鸞様がどんなに、お喜びあそばすでしょう………けれどあゝ、それがすぐ長いお別れになるとは! (泣く)
親鸞 もう泣いてくれるな。(間)ただ祈ってくれ。わしはだいぶ心が落ちついて来た。魂を平らかにもちたい。静かにしておくれ。平和のなかに長い眠りにつきたいから。(勝信涙をおさえる。しずかになる)一生を仏様にささげてはたらいたものの良心の安けさがわしを訪れて来るようだ。あの世へのそこはかとなき思慕のここちにたましいは涙ぐみつつ、挙《あ》げられてゆくような気がする。しめやかな輝き、濡《ぬ》れたこころもちが恵みのようにわしをつつむ……唯円。もっとそば近く寄っておくれ。お前の親しい忠実な顔がもっとよく見えるように。
唯円 (ひざをすすめる)あなたのたましいに祝福を。
親鸞 おゝ、お前のたましいに祝福を。お前は一生の間よく私に仕えてくれた……私の枕《まくら》もとの数珠《じゅず》を取ってくれ。(数珠を受け取り手に持ちて)この桐《きり》の念珠はわしの形見にお前にあげる。これはわしが法然《ほうねん》様からいただいたのだよ。(唯円数珠を受け取る)わしが常々放さず持っていたのだ。貫ぬきとめたこの数珠には三世の諸仏の御守りがこもっている。わしがなくなった後この数珠を見てはわしを思い出しておくれ。わしは浄土でお前のために祈っているのだから。(だんだん声の調子がちがってくる)寺の後事はお前に託したぞ。仏様に祈りつつ、すべての事を皆と和らぎ、はかって定めてくれ。この世には無数の不幸な衆生《しゅじょう》がいる。その人たちを愛してくれ。仏様のみ栄えがあらわれるように。(息をつく)
唯円 あとの事はお案じなさいませんように。及ばずながら私が皆様と力をあわせて、法の隆盛をはかります。仏さま
前へ
次へ
全138ページ中130ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
倉田 百三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング