あの子の事を忘れた日はない。あの子の顔が見たい。あの子の声に飢えている……
唯円 お会いなさいませ。お師匠様。父と子とが互いに会いたがっている。それを会うのがなぜそのようにむつかしい事なのでしょう。実に単純な事ではございませんか。
親鸞 まことに単純な事だ。調和した浄土ならすぐできるやさしい事だ。その単純な事ができぬような不自由な世界がこの世なのだ。(声を強くする)多くの人々の平和がその単純な一事にかかっている。無数の力が集まって私をさえぎっている。私は今その力の圧迫を痛切に感じている。私は争う力がない。(身をもがく)私は会えない。
唯円 いいえ。会ってください。会ってください。あなたはあまり義理を立て過ぎなされます。あなたのお子と思わずに、隣人として、赤の他人と思って……
親鸞 (苦しげに)おゝそれが私にできたなら! 私はそう思うべきであると信ずる。そう思えよとお前に教える。しかしそう思う事ができないのだ。お前はさっき私が他人に優しくわが子にきびしいと言ったね。それは私がわが子ばかり愛して、他人を愛する事ができないからだ。私は善鸞を愛している。私の心はややもすれば善鸞を抱きかかえて他の人々を責めようとする。ちょうど愛におぼれる母親が悪戯《わるさ》をする子供を擁して、あわれな子守《こもり》をしかるように。私は私の心のその弱みを知っている。それを知っているだけ私は善鸞を許し難いのだ。私は善鸞のために死んだ女の家族と、女の夫と、その家族と――すべて善鸞を呪《のろ》っている人々の事を思わずにはいられない。「あなたの子のために……」とその人々の目は語っている。「私の子のために……」と私はわびずにはいられない。ことに私はその人々を愛していないのだからね。私はあの子に会わなくともあの子を愛していないとの苛責《かしゃく》は感じない。それほど私はあの子を心の内では愛しているのだ。
唯円 私はせつなくなります。私はわからなくなります。
親鸞 その上私の弟子《でし》たちにも私が善鸞に会う事を喜ばぬもののほうが多いのだ。先刻も知応《ちおう》と永蓮《ようれん》とが来て私に会わぬように勧めて行った。
唯円 まあ、あなたのお心も察しないで。
親鸞 私のためを思って言ってくれたのだ。けれどすまぬ事だがそれは耳に快く響かなかった。
唯円 皆はなぜそのような考え方をするのでしょうねえ。
親鸞 お前の
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