た人の世の感じは、どこにも見えないような気がする。(飲みほす)この杯はだれにやろう。(見回す)かえで、かえで。小さいかえでに。(杯をかえでにさす)
かえで おおきに。(心持ち頭を傾け、杯を受け取る)
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仲居酒をつぐ。かえでちょっと唇《くち》をつけて下に置く。
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善鸞 かえで、何か歌っておきかせ。
かえで 私はいやですわ。ねえさんたちがたくさんいらっしゃるではありませんか。
善鸞 いやお前でなくてはいけないのだ。
太鼓持ち さあ、所望じゃ、所望じゃ。
かえで しょうがないのね。(子供らしい声で歌う)
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浅香三味線をひく。
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萩《はぎ》、桔梗《ききょう》、なかに玉章《たまずさ》しのばせて、
月は野末に、草のつゆ。
君を松虫夜ごとにすだく。
ふけゆく空や雁《かり》の声。
恋はこうした……
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善鸞 もうよい。もうよい。(堪えられぬように)おゝ、あの口もとの小さなこと。
浅香 (まだ三味線を持ったまま)まあ、不意に途中でお切りなさるのですもの。
善鸞 見てやってください。この小さい子を。よその荒男が歌をうたえと責めまする……(涙ぐむ)も一つおあがり。(かえでに杯をさす)
かえで もうたくさん。
太鼓持ち (女の声色《こわいろ》を使う)私がすけ[#「すけ」に傍点]てあげましょうわいな。(かえでの前の杯を取って飲む)
浅香 きょうのあなたはどうかしていらっしゃるのね。
善鸞 いやどうもしてはいないよ。
浅香 きょうはもうよしましょうよ。お顔色もよくありませんよ。私少しも騒いだりする気になれないわ。
善鸞 さびしい事を言う女だな。(浅香の顔をじっ[#「じっ」に傍点]と見る。やがて急に浅香の前髪の中に手を突き込む)
浅香 (おどろく)あれ、何をなさるのです。(頭に手をやる)
善鸞 …………
かえで 鬢《びん》がほつれてしまったわ。
善鸞 お前のふさふさとした黒髪を見ていたら、憎らしくなったのだ。(太鼓持ちに)これ、鶏の鳴くまねをしてみろ。
太鼓持ち 心得ました。(鶏の声色を使う)
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遊女たち笑う。
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