繊鋭、果敢というようなものと相いれないように考えたりするのも間違いである。信仰というものはそんな狭い、融通のきかないものではない。仏法などは無相の相といって、どんな形にでも変転することができる。墨染の衣にでも、花嫁の振袖にでも、イヴニングドレスにでも、信仰の心を包むことは自由である。草の庵でも、コンクリート建築の築地本願寺でも、アパートの三階でも信仰の身をおくことは随意である。そういう形の上に信仰の心があるのではない。モダンが好みならどんな超モダンでもいい、ただその中に包まれた信仰の心がないのがいけないのである。薄っぺらなのである。
また職業上の自由競争とか、生活上の戦術とかいうようなものも、思う存分やっていい。ただそれに即して直ちに念仏のこころがあればいいのである。浄土真宗の信仰などはそれを主眼とするのである、信仰というものをただ上品な、よそ行きのものと思ってはならない。お寺の中で仏像を拝むことと考えては違う。念仏の心が裏打ちしていれば、自由競争も、戦術も、おのずと相違してくるのである。この外側からはわからない内側の心持の世界というものが、限りない深さと広がりとのあるもので、それが
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