岩波君がせめて東京見物させようと思っても、用事がすむとさっさと帰郷してしまった。息子を勉強させたいばかりに働いていたのだ。そして岩波君が志操ある書店主として立派に成功したとき、孝養を思っても母はもう世を去っていた。
 ガンジーの母は、ガンジーがロンドンに勉強しに行こうとするとき、インドの母らしい敬虔な心から、わが子がヨーロッパの悪風に染むことを恐れてなかなか許そうとしなかった。決してそんなことのない誓いをさせてやっと許した。
 源信僧都の母は、僧都がまだ年若い修業中、経を宮中に講じ、賞与の布帛を賜ったので、その名誉を母に伝えて喜ばそうと、使に持たせて当麻の里の母の許に遣わしたところ、母はそのまま押し返して、厳しい、諫めの手紙を与えた。
「山に登らせたまひしより、明けても暮れても床しさは心を砕きつれども、貴き道人となしたてまつる嬉しやと思ひしに、内裏の交りをし、紫甲青甲に衣の色をかへ、御布施の物とりたまひ候ほどの、名聞利養の聖人となりそこね給ふ口惜さよ。夢の夜に同じ迷ひにほだされたる人々に、名を知られて何かせん。永き後に悟りをきはめて仏のみ前にて名をあげ給へかし云々」
 母性の愛の発動する形は大体右の例のように、本能的感情と、養、教育の物質のための犠牲的労働と、精神的薫陶のためのきびしい訓誡と切なる願訴との三つになって現われるように思う。
 動物的、本能的感情の稀薄な母性愛は骨ぬきの愛である。これが永遠に母親の愛の原動力である。これがなかったら、私たちは母親というものをこれほどなつかしく思うことはできないだろう。私は動物園で子どもを抱いている母猿を見るごとに感動せぬことはない。これは実に「聖母マリア」の原型《ウールティプス》だ。聖母の中の聖母、ファン・エックの聖母といえども、この母猿の本能的感情より発祥しなくてはぬけがらの聖母である。その哺乳、その愛撫、その敵からの保護の心づかい、私は見ていて涙ぐましくさえなる。向ヶ丘遊園地で見た母猿の如きはその目や、眉や、頬のあたりに柔和な、精神性のひらめきさえ漂うているような気がした。
 母親の抱擁、頬ずり、キッス、頭髪の愛撫、まれには軽ろい打擲さえも、母性愛を現実化する表現として、いつまでも保存さるべきものである。おしっこ[#「おしっこ」に傍点]の世話、おしめ[#「おしめ」に傍点]の始末、夜泣きの世話、すべて直接に子どもの肉体的、生理的な方面に関係のあるケヤーは母性愛になくてならぬものである。
 映画「母の手」などもこの種の世話、心づかいが豊富に盛られているためにどれほど母らしさの愛が活写されているか知れない。母牛が犢《こうし》をなめるような愛は昔から舐犢《しとく》の愛といって悪い方の例にされているけれども、そういう趣きがなくなっては、母の愛は去勢されるのだ。
 子どもの養、教育の資のために母親が犠牲的に働くという場合は、主として父親のない寡婦の母親の場合であるが、立志伝などではこの場合が非常に多いようだ。ブース大将の母、後藤新平の母、佐野勝也の母などもそうである。また貧しい家庭では、たとい父親のある場合でも、母親は子どもの養、教育の費用のために犠牲的に働くのだ。それが母子の愛を深め、感謝と信頼との原因となるのはいうまでもない。愛してはくれるが、働いてくれるには及ばなかった富裕な家の母と、自分の養、教育のために犠牲的に働いてくれた母とでは、子どもの感情は大変な相異であろう。労働と犠牲とは母性愛を神聖なものにする条件だ。佐野勝也氏の母は機を織ったり、行商したりして子どもの学資をつくった。後藤新平は母の棺の前に羽織、袴で端座して、弔客のあるごとに、両手をついて、「母上様誰それがきてくれました」と報じて、涙をこぼしたということだ。
 母親が子どもを薫陶した例は昔から枚挙にいとまない。
 孟子の母の断機、三遷の話、源信僧都の母、ガンジーの母、ブースの母、アウガスチンの母、近くは高村光雲の母など、みな子どもを励まし、導いて、賢い、偉い人間になるように鼓吹した。それは動物的、本能的な愛からもっと高まって、精神的、霊的な段階にまで達した愛である。実際厳しいところのある母を持った子は幸いである。厳しい母親というものは少ない。その感化は一生つづく、子どものときから一生涯つづく性格に力強い方向を与える。女性の任務の最大なものは母としてのそれであろうが、母としての務めの中でも、この子どもの精神と霊とを薫陶することが一番高い、重大なものであろう。
 しかし子どもの精神と霊性とを薫陶するということも、肉体の世話と、労働の奉仕とを前提としなくては、子どもを心服せしめ、感化を及ぼすことはできない。哺乳は乳母任せ、身のまわりの世話は女中まかせ、学資は夫まかせで、自分は精神上の薫陶だけしようとしたって、効果の上るはずはない
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