となり、啓示となるのでなければ全くはない。今日この国の知的指導者たちの主張するのは主として合理的知性である。「合理的なるもの」を認識するための知性である。しかし生の真理の重要な部分はむしろ非合理的の構造を持ち、それを把握するためにはそれに対応する直観的英知によらねばならぬ。さらに生の真理の最深部は啓示によるのでないならとらえることができぬ。否それはわれわれがとらえるのでなく、とらえられるのである。
ブルンナーやバルトらの主張する如くに、啓示なくして、理性知のみによって、生の真理をとらえ得るという考え方そのものが、すでに生への要請を平浅ならしめるものである。
最近にはこの国の知性主義者たちも、その非を認めて知性の改造をいうようになった。それはよろこぶべき転向である。しかしながらまだ、彼らが知性の否定や、啓示の肯定をいうようになる時機はおそらく遠いであろう。
われわれは生の探求に発足した青年に、永遠の真理の把握と人間完成とを志向せしめようと祈願するとき、彼らがいずれはその理性知を揚棄せねばならぬことを注意せざるを得ず、またその読者の選択を合理的知性に対応する方向のみに向けしむることは
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