「行なう」ことと不可分である故に、なおさら物識りにはなり難い事情があるのである。
 読書とは単なる知性の領域にある事柄ではない。それは情意と、実践との世界に関連しているのである。特に東洋においては、それはむしろ実践のためにあるものなのであった。
 しかしながら前にも述べた如く、良書とは自分の抱く生の問いにこたえ得る書物のみではなく、生の問いそのものをも提起してくれるものはさらに良書ではある。「いかに問うか」ということは素質に属する。天才は常人よりももっと深く、高く、鋭く問い得る人間である。常人が問わずしてみすごすことを天才は問い得るのである、林檎はなぜ地に落ちるか? これはかつてニュートンが問うまで常人のものではなかった。姦淫したる女を石にて打つにたうる無垢の人ありや? イエスがこの問いを提出するまで誰も自分の良心に対してかく問い得なかった。財の私的所有ならびに商業は倫理的に正しきものなりや? マルクスが問うてみせるまで、常人はそれほどにも自分らの禍福の根因であるこの問いを問うことができなかった。
 天才の書によってわれわれは自分の力では開き得ない宇宙と人間性との奥深き扉をのぞき得るの
前へ 次へ
全18ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
倉田 百三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング