発見するには、自分の生の問いを抱いて、その問いを同じくし、解決を与えんと擬する書物を捜せばいいのである。
下宿を捜すにも実際にかような仕方で、要求の条件に適するものを、数多くの中から選んだわけである。
同一人にとっても、問いの所在ならびに解決方途の異なるにしたがって、かような指導書もまた推移していく。私にとってはそれはカルル・ヒルティの『眠られぬ夜のため』であった時期もあった。『歎異鈔』であった時期もあった。禅宗の普覚大師[#(ノ)]書であったときもあった。中山みき子の『みかぐら歌』であったときさえあるのである。
かような時期においては反復熟読して暗記するばかりに読み味わうべきものである。
一度通読しては二度と手にとらぬ書物のみ書庫にみつることは寂寞である。
自分の職能の専門のための読書以外においては、「物識り」にならんがために濫読することは無用のことである。識見は博きにこしたことはないが、そのためにしみじみと心して読まぬのでは得るところが少ない。浅き「物識り」を私はとらない。
「物識り」と「深き人」とは同一人であることはまれである。
特に実践の問題においては、「知る」とは
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