焼かれた。それ故「海の児」「日の児」としての烙印が彼の性格におされた。「われ日本の大船とならん」というような表現を彼は好んだ。また彼の消息には「鏡の如く、もちひ[#「もちひ」に傍点]のやうな」日輪の譬喩が非常に多い。
彼の幼時の風貌を古伝記は、「容貌厳毅にして進退|挺特《ていとく》」と書いている。利かぬ気の、がっしりした鬼童であったろう。そしてこの鬼童は幼時より学を好んだ。
「予はかつしろしめされて候がごとく、幼少の時より学文に心をかけし上、大虚空蔵菩薩の御宝前に願を立て、日本第一の智者となし給へ。十二の歳より此の願を立つ」
日蓮の出家求道の発足は認識[#「認識」に傍点]への要求であった。彼の胸中にわだかまる疑問を解くにたる明らかなる知恵がほしかったのだ。
それでは彼の胸裡の疑団とはどんなものであったか。
第一には何故正しく、名分あるものが落魄して、不義にして、名正しからざるものが栄えて権をとるかということであった。
日蓮の立ち上った動機を考えるものが忘れてならないのは承久の変である。この日本の国体の順逆を犯した不祥の事変は日蓮の生まれるすぐ前の年のできごとであった。陪臣の身を
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