ましめ、一笑にふされていたが、この予言はあたって文永五年正月蒙古の使者が国書をもたらして幕府をおどかした。
「日蓮が去ぬる文応元年勘へたりし立正安国論、すこしも違はず符合しぬ。此の書は白楽天が楽府にも越え、仏の未来記にもをとらず、末代の不思議何事かこれに過ぎん。(種々御振舞御書)」
そこで日蓮は今度こそ幕府から意見を徴せらるることを期待したが、やはり何の沙汰もなかった。日蓮はここにおいて決するところあり、自ら進んで、積極的に十一通の檄文《げきぶん》を書いて、幕府の要路及び代表的宗教家に送って、正々堂々と、公庁が対決的討論をなさんことを申しいどんだ。
これは憂国の至情黙視しておられなかったのであるが、また彼の性格の如何に激烈で、白熱的であるかを示すものである。それにつけても今の日本の非常の時に、これほどの烈々たる情熱ある精神の使徒を私は期待することを禁じ得ない。
当局及び諸宗は震駭した。中にも極楽寺の良観は、日蓮は宗教に名をかって政治の転覆をはかる者であると讒訴《ざんそ》した。時節柄当局の神経は尖鋭となっていたので、ついにこの不穏の言動をもって、人心を攪乱するところの沙門を、流罪に
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