はらそうと、自ら衆をひきいて、安房の小松原にむかえ撃ったのであった。
 弟子の鏡忍房は松の木を引っこ抜いて防戦したが討ち死にし、難を聞いて駆けつけた工藤吉隆も奮闘したが、衆寡敵せず、ついに傷ついて絶命した。
 日蓮は不思議に一命は助かったが、頭に傷をうけ、左の手を折った。
 日蓮は工藤吉隆の法華経のための殉教を賞めて、大僧の礼をもって葬り、日玉上人の法名を贈った。鏡忍房の墓には「手向ノ松」を植えた。
 日蓮はこの法難によって、経に符合する意味で法華経の行者としての自信を得た。「日蓮は日本第一の法華経の行者也」という宣言をあえて発する自覚を得た。彼がこの小松原の法難における吉隆と鏡忍との殉教を如何に尊び、感謝しているかは、彼の消息を見れば、輝くほどの霊文となって現われているのであるが、ここに引用する余裕がない。後に書くが日蓮はまれに見る名文家なのである。
 この法難から文永五年蒙古来寇のころまで、三、四年間は日蓮の身辺は比較的静安であった。この間に彼の法化が関東の所々にのびたのであった。

     七 蒙古来寇の予言

 日蓮はさきに立正安国論において、他国侵逼難を予言して幕府当局をい
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