に打たれ、動かされた。夜は草庵に人々が訪ねて教えをこいはじめた。彼は唱題し、教化し、演説に、著述に、夜も昼も精励した。彼の熱情は群衆に感染して、克服しつつ、彼の街頭宣伝は首都における一つの「事件」となってきた。
 既成教団の迫害が生ずるのはいうまでもない成行きであった。また鎌倉政庁の耳目を聳動させたのももとよりのことであった。
 法華経を広める者には必ず三類の怨敵が起こって、「遠離於塔寺」「悪口罵言」「刀杖瓦石」の難に会うべしという予言は、そのままに現われつつあった。そして日蓮はもとよりそれを期し、法華経護持のほこりのために、むしろそれを喜んだ。
 かくて三年たった。関東一帯には天変地妖しきりに起こり出した。正嘉元年大地震。同二年大風。同三年大飢饉。正元元年より二年にかけては大疫病流行し、「四季に亙つて已まず、万民既に大半に超えて死を招き了んぬ。日蓮世間の体を見て、粗《ほぼ》一切経を勘ふるに、道理文証之を得了んぬ。終に止むなく勘文一通を造りなして、其の名を立正安国論と号す。文応元年七月十六日、屋戸野《やどや》入道に付して、古最明寺入道殿に進め了んぬ。これ偏に国土の恩を報ぜん為めなり。(
前へ 次へ
全43ページ中16ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
倉田 百三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング