得しめん(法華経、勧発品)」とも録されてある。
 今の時代は末法濁悪の時代であり、この時代と世相とはまさに、法華経宣布のしゅん[#「しゅん」に傍点]刻限に当っているものである。今の時代を救うものは法華経のほかにはない。日蓮は自らをもって仏説に予言されている本化の上行《じょうぎょう》菩薩たることを期し、「閻浮提第一の聖人」と自ら宣した。
 日蓮のかような自負は、普遍妥当の科学的真理と、普通のモラルとしての謙遜というような視角からのみみれば、独断であり、傲慢であることをまぬがれない。しかし一度視角を転じて、ニイチェ的な暗示と、力調とのある直観的把握と高貴の徳との支配する世界に立つならば、日蓮のドグマと、矜恃と、ある意味で偏執狂《モノマニア》的な態度とは興味津々たるものがあるのである。われわれは予言者に科学者の態度を要求してはならない。
 他宗を破折する彼の論拠にも、理論的には幾多の抗論を立てることができるであろう。しかし日蓮宗の教徒ならぬわれわれにとっては、その教理がここで主なる関心ではなく、彼の信念、活動の歴史的意義、その人格と、行状と、人間味との独特のニュアンスとが問題なのである。
 
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