の日蓮のやさしさに触れて、ますます往年の果敢な法戦に敬意を抑え得ないのである。
 彼は故郷への思慕のあまり、五十町もある岨峻をよじて、東の方雲の彼方に、房州の浜辺を髣髴しては父母の墓を遙拝して、涙を流した。今に身延山に思恩閣として遺跡がある。
「父母は今初めて事あらたに申すべきに候はねども、母の御恩の事殊に心肝に染みて貴くおぼえ候。飛鳥の子を養ひ、地を走る獣の子にせめられ候事、目も当てられず、魂も消えぬべくおぼえ候。其につきても母の御恩忘れ難し。……日蓮が母存生しておはせしに、仰せ候ひしことも、あまりに背き参らせて候ひしかば、今遅れ参らせて候が、あながちにくやしく覚えて候へば、一代聖教を検べて、母の孝養を仕らんと存じ候。(刑部左衛門尉女房御返事)」
 一体日蓮には一方パセティックな、ほとんど哭くが如き、熱腸の感情の昂揚があるのだ。たとえば、竜ノ口の法難のとき、四条金吾が頸の座で、師に事あらば、自らも腹切らんとしたことを、肝に銘じて、後年になって追憶して、
「返す/\も今に忘れぬ事は、頸切られんとせし時、殿は供して馬の口に付て、泣き悲しみ給ひしは、如何なる世にも忘れ難し。たとひ殿の罪深くして、地獄に入り給はば、日蓮を如何に仏に成さんと釈迦|誘《こし》らへさせ給ふとも、用ひ参らせ候べからず。同じ地獄なるべし」
 これなどは断腸の文字といわねばならぬ。
 また上野殿への返書として、
「鎌倉にてかりそめの御事とこそ思ひ参らせ候ひしに、思ひ忘れさせ給はざりける事申すばかりなし。故上野殿だにもおはせしかば、つねに申しうけ給はりなんと嘆き思ひ候ひつるに、御形見に御身を若くしてとどめ置かれけるか。姿の違はせ給はぬに、御心さへ似られける事云ふばかりなし。法華経にて仏にならせ給ひて候と承はりて、御墓に参りて候」
 こうした深くしみ入り二世をかけて結ぶ愛の誠と誓いとは、日蓮に接したものの渇仰と思慕とを強めたものであろう。

     九 滅度

 身延山の寒気は、佐渡の荒涼の生活で損われていた彼の健康をさらに傷つけた。特に執拗な下痢に悩まされた。
「此の法門申し候事すでに二十九年なり。日々の論議、月々の難、両度の流罪に身疲れ、心いたみ候ひし故にや、此の七八年が間、年々に衰病起り候ひつれども、なのめにて候ひつるが、今年(弘安四年)は正月より其の気分出来して、既に一期をはりになりぬべし。其の上齢すでに六十にみちぬ。たとひ十に一、今年は過ぎ候とも、一、二をばいかでかすぎ候べき。(池上兄弟への消息)」
 その生涯のきわめて戯曲的であった日蓮は、その死もまた牧歌的な詩韻を帯びたものであった。
 弘安五年九月、秋風立ち初むるころ、日蓮は波木井氏から贈られた栗毛の馬に乗って、九年間住みなれた身延を立ち出で、甲州路を経て、同じく十八日に武蔵国池上の右衛門太夫宗仲の館へ着いた。驢馬に乗ったキリストを私たちは連想する。日蓮はこの栗毛の馬に愛と感興とを持った。彼の最後の消息がこの可憐な、忠実な動物へのいつくしみの表示をもって終わっているのも余韻嫋々としている。彼の生涯はあくまで詩であった。
「みちのほど、べち事候はで池上までつきて候。みちの間、山と申し、河と申し、そこばく大事にて候ひけるを、公達に守護せられ参らせ候て、難もなくこれまで着きて候事、おそれ入り候ひながら悦び存じ候。……所労の身にて候へば、不足なる事も候はんずらん。さりながらも、日本国に、そこばくもてあつかうて候身を、九年迄御帰依候ひぬる御志、申すばかりなく候へば、いづくにて死に候とも、墓をば身延の沢にせさせ候べく候。又栗毛の御馬はあまりにおもしろく覚え候程に、いつまでも失ふまじく候。常陸の湯にひかせ候はんと思ひ候が、若し人にもとられ候はん、又その外いたはしく覚えば、上総の藻原の殿のもとに預け置き奉るべく候。知らぬ舎人をつけて候へば、をぼつかなく覚え候。(下略)」
 これが日蓮の書いた最後の消息であった。
 十月八日病|革《あらた》まるや、日昭、日朗以下六老僧をきめて懇ろに滅後の弘経を遺嘱し、同じく十八日朝日蓮自ら法華経を読誦し、長老日昭臨滅度時の鐘を撞《つ》けば、帰依の大衆これに和して、寿量品《しゅりょうぼん》の所に至って、寂然として、この偉大なたましいは、彼が一生待ち望んでいた仏陀の霊山に帰還した。そこでは並びなき法華経の護持者としての栄冠が彼を待っていることを門弟、檀那、帰依の大衆は信じて疑わず、声をうち揃えて、南無妙法蓮華経を高らかに唱題したのであった。

 毎年十月十八日の彼の命日には、私の住居にほど近き池上本門寺の御会式《おえしき》に、数十万の日蓮の信徒たちが万燈をかかげ、太鼓を打って方々から集まってくるのである。
 スピリットに憑《つ》かれたように、幾千の万燈は軒端を高々と大群衆に揺られて、後か
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