のである。このことは今の私にとっていかばかり感謝と希望であることぞ。
日蓮は実に身延の隠棲の間に、心しみじみとした名文を書いている。私は限りない愛惜をもって、紙幅の許すまで彼自らの文章に語らせたい。
「五月十二日、鎌倉を立ちて甲斐の国へ分け入る。路次のいぶせさ、峰に登れば日月をいただく如し。谷に下れば穴に入るが如し。河たけくして船渡らず、大石流れて箭をつくが如し。道は狭くして繩の如し。草木繁りて路みえず。かかる所へ尋ね入る事、浅からざる宿習也。かかる道なれども釈迦仏は手を引き、帝釈は馬となり、梵王は身に立ちそひ、日月は眼に入りかはらせ給ふ故にや、同十七日、甲斐国波木井の郷へ着きぬ。波木井殿に対面ありしかば大に悦び、今生は実長が身に及ばん程は見つぎ奉るべし、後生をば聖人助け給へと契りし事は、ただ事とも覚えず、偏に慈父悲母波木井殿の身に入りかはり、日蓮をば哀れみ給ふか。(波木井殿御書)」
かくて六月十七日にいよいよ身延山に入った。彼は山中に読経唱題して自ら精進し、子弟を教えて法種を植え、また著述を残して、大法を万年の後に伝えようと志したのであった。さてその身延山中の聖境とはどんな所であろう。
「此の山のていたらく……戌亥の方に入りて二十余里の深山あり。北は身延山、南は鷹取山、西は七面山、東は天子山也。板を四枚つい立てたるが如し。此外を回りて四つの河あり。北より南へ富士河、西より東へ早河、此は後也。前に西より東へ波木井河の中に一つの滝あり、身延河と名づけたり。中天竺の鷲峰を此処に移せるか。はた又漢土の天台山の来れるかと覚ゆ。此の四山四河の中に手の広さ程の平らかなる処あり。爰に庵室を結んで天雨を脱れ、木の皮をはぎて四壁とし、自死の鹿の皮を衣とし、春は蕨を折りて身を養ひ、秋は果を拾ひて命を支へ候。(筒御器鈔)」
今日交通の便開けた時代でも、身延山詣でした人はその途中の難と幽邃《ゆうすい》さとに驚かぬ者はあるまい。それが鎌倉時代の道も開けぬ時代に、鎌倉から身延を志して隠れるということがすでに尋常一様な人には出来るものでないことは一度身延詣でしてみれば直ちに解るのである。
ことには冬季の寒冷は恐るべきものがあったに相違ない。
雪が一丈も、二丈もつもった消息も書かれてあり、上野殿母尼への消息にも「……大雪かさなり、かんはせめ候。身の冷ゆること石の如し。胸の冷めたき事氷の如し」と書いてある。
こうした深山に日蓮は五十三歳のときから九年間行ない澄ましたのである。
「かかる砌なれば、庵の内には昼はひねもす、一乗妙典のみ法《のり》を論談し、夜はよもすがら、要文誦持の声のみす。……霧立ち嵐はげしき折々も、山に入りて薪をとり、露深き草を分けて、深山に下り芹を摘み、山河の流れも早き巌瀬に菜をすすぎ、袂しほれて干わぶる思ひは、昔人丸が詠じたる和歌の浦にもしほ垂れつつ世を渡る海士《あま》も、かくやと思ひ遣る。さま/″\思ひつづけて、観念の牀《とこ》の上に夢を結べば、妻恋ふ鹿の声に目をさまし、……(身延山御書)」
こうしたやさしき文藻は粗剛な荒法師には書けるものでない。
建治二年三月旧師道善房の訃音に接するや、日蓮は悲嘆やる方なく、報恩鈔二巻をつくって、弟子日向に持たせて房州につかわし、墓前に読ましめ「花は根にかえる。真味は土にとどまる。此の功徳は故道善房の御身にあつまるべし」と師の恩を感謝した。
それにもまして美しい、私の感嘆してやまない消息は新尼御前への返書として、故郷の父母の追憶を述べた文字である。
「海苔《あまのり》一ふくろ送り給ひ畢んぬ。……峰に上りてわかめや生ひたると見候へば、さにてはなくて蕨のみ並び立ちたり。谷に下りて、あまのりや生ひたると尋ぬれば、あやまりてや見るらん、芹のみ茂りふしたり。古郷の事、はるかに思ひ忘れて候ひつるに、今此のあまのりを見候て、よし無き心おもひでて憂《う》くつらし。かたうみ、いちかは、小港の磯のほとりにて、昔見しあまのりなり。色、形、味はひもかはらず、など我父母かはらせ給ひけんと方違《かたちが》へなる恨めしさ、涙おさへがたし」
そくそくとして心に沁みる名文である。こうしたやさしき情緒の持主なればこそ、われわれは彼の往年の猛烈な、火を吐くような、折伏のための戦いを荒々しと見ることはできないのである。また彼のすべての消息を見て感じることはその礼の行きわたり方である。今日日蓮の徒の折伏にはこの礼の感じの欠けたるものが少なくない。日蓮の折伏はいかに猛烈なときでも、粗野ではなかったに相違ないことは充分に想像し得るのである。やさしき心情と、礼儀とを持って、しかも彼の如く猛烈に真理のために闘わねばならない。そのことたる、ひとえに心境の純潔にして疾ましからざると、真理への忠誠と熱情のみによって可能なことである。私は晩年
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