してやまないであろう。
 青年学生はいずれ関心事たる恋愛につき、いろいろな説を参考するもよかろう。また文芸や、映画でその種々相に触れずにもいないわけである。だが結局は自分の胸にわいてくるイメージと要請とをもって、自分たちの恋の世界を要求し、つくり出すべきだ。
 今日の文芸や、映画に出てくる恋愛が不満ならば恐れずその不満を持て。それはむしろたのもしいことだ。
 一般にいって自分の恋愛の要求を引き下げる必要はない。自分の夢多き空想だとして、現実主義の恋愛作者に追従したりする必要はない。
 観念的映像が多いだけむしろよく、それが青春の標徴である。恋愛を単に生物学的に考えたがることほど粗野なことはない。知性の進歩はその方角にあるのではない。恋愛を性慾的に考えるのに何の骨が折れるか。それは誰でも、いつでもできる平凡事にすぎない。今日の文化の段階にまで達したる人間性の精神的要素と、ならびに人間性に禀具するらしい可能的神秘の側面で、われわれの恋愛の要請とは一体どんなものであるかを探求するのこそ進歩的恋愛論の本質的任務でなくてはならぬ。これに比べれば恋愛の社会的基礎の討究さえも第二義的というべきだ。ま
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