は恋愛以上である。宗教的良心的命令も恋愛以上である。人類的正義と国家的義務も恋愛以上である。青年はこれらの恋愛を越えたる高所を持ちつつ、恋愛を追わねばならぬ。
さきに善への願いと恋愛の求めとをひとつに燃やしめよといったのもここに帰するのだ。恋以上のもののためには恋をも供えものとすることを互いに誓うことは恋をさらに高めることである。
肉体的耽溺を二人して避けるというようなことも、このより高きものによって慎しみ深くあろうとする努力である。道徳的、霊魂的向上はこうして恋愛のテーマとなってくる。二人が共同の使命を持ち、それを神聖視しつつ、二人の恋愛をこれにあざない合わせていくというようなことであれば、これは最も望ましい場合である。
七 私の経験と、若干の現実的示唆
以上は青年学生としての恋愛一般の掟の如きものである。しかし現実の恋愛は実に多様な場合があり、陥りやすき人間の弱点があり、社会的不備から生ずる同情すべき散文的側面があり、必ずしも一概にはいえないさまざまの事情があるものである。
ことに私の上来のいましめはイデアリストに現実的心得を説くよりも、むしろリアリストに理想的純情を鼓吹することをもって主眼としてきたものだけに、現実生活においてなるべく傷を受けないように損をしないようにという忠告は乏しいのだ。実際イデアリストの道は危険の道であり、私自身恋愛のために学生時代にひどい傷をつくって、学業も半ばに捨て、一生つづく病気を背負ったような始末である。私は青年学生に私の真似をせよと勧める勇気はもとより持っていない。しかしそれだからといって、学業を怠らぬよう、眠られぬ夜がつづかぬよう、社会や、家庭の掟を破らぬよう、万事ほどよく恋愛せよというようなことを忠告する気にはなれない。生命にはその発動の機微があり、恋愛にはそれ自らのいのち[#「いのち」に傍点]がある。異性を恋して少しも心乱れぬような青年は人間らしくもない。「英雄の心緒乱れて糸の如し」という詩句さえある。ことにその恋愛が障害にぶつかるときには勉強が手につかないようなこともある。ことには恋愛に熱中し得る力は、また君につくし、仕事にささげ得る力であることを思えば、生ぬるい恋の仕方をむしろしりぞけたくなる。だからこれは恋する力が強いのが悪いのではなく、知性や意力が弱いのがいけないのだ。奔馬のように狂う恋情を鋭
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