歩性とを私たちが信じることができるような好み方、選び方をしてもらいたいものだ。
ところで今日娘たちの好みは果していいであろうか。その青年鑑賞の目は信頼するに足るであろうか。反対に青年たちの娘たちへのそれはどうであろうか。ある青年がどんな娘を好むかはその青年の人生への要求をはかる恰好の尺度である。美しくて、常識があって、利口に立ち働けそうな娘を好むならその青年の人物はそういうものなのだ。無造作で、精神的で、ささげる心の濃い娘を好むなら、そうした品性の青年なのだ。知性があって、質素で社会心のある娘を好むなら、そうした志向が青年にあるのだ。
娘に対して注文がないということは生への冷淡と、遅鈍のしるしでほめた話ではない。むしろさかんな注文を出して、立派な、特色のある娘たちを産み出してもらいたいものだ。
イギリスの貴族の青年は祖国の難のあるとき、ぐずぐずしていると、令嬢たちに卑怯を軽蔑されるので、勇んで戦線におもむくといわれている。おどらぬ男には嫁に行かぬと「酋長の娘」にいわれては土人の若者はおどらずにはおられまい。
ところで今日この国の娘たちは充分に自覚しているとはいい難い。次代を背負う青年がただ娘たちの好みに引きずられるだけでは心細い。彼女たちの好みにまかせておれば、スマートな、物わかりのいい、社会的技能のあるような青年がふえても、深みと、敦《あつ》みのある理想主義の青年などは減っていきそうに見える。貧困とたたかって民族的・社会的革新のためにたたかうような青年などはお目にとまりそうにもない。
そこで青年たちは断然相互選択にイニシアチヴをとって「愛人教育」をやる気でなくてはならぬ。素質のいい娘を見つけて、如何なる青年を好むべきかを教えこむのだ。偉大にして理想主義のたましい燃ゆる青年は、必ずしも舗道散歩のパートナーとして恰好でなくても、真に将来を託するに足るというようなことを啓蒙するのだ。貧しい大学生などよりは、少し年はふけていても、社会的地歩を占めた紳士のほうがいいなどといった考えは実に、愚劣なものであるというようなことを抗議するのだ。日本の娘たちはあまりに現実主義になるな、浪曼的な恋愛こそ青春の花であるというようなことを鼓吹するのだ。愛と情熱と自信とをもってすればできないことはない。現に私は学生時代に、修身教育しか知らなかった愛人を、ゴッホや、ベルグソンがわかり
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