ならば、童貞を長く保たねばならぬ。学生時代を童貞ですごすことは一生から見て、少しも損失ではない。これは冷淡な教父の如き心でいうのでなく、現実的な考慮を経ていうのである。つまり女を知[#「知」に傍点]るの機会は、もし欲するなら、壮年期に幾らでもあるからである。
 もっとも二十五歳まで女を知[#「知」に傍点]らなければ、知[#「知」に傍点]りたいための悩みを持つであろう。しかしその悩みは青春そのものの本質なのだ。それが青春の独特な歓楽をつくり出すところの種箱なのだ。それが青年を美しくし、弾力を与え、ものの考え方を純真ならしめる動機力なのだ。
 私は青春をすごして、青春を惜しむ。そして青春が如何に人生の黄金期であったかを思うときにその幸福を惜しめとすすめたくなるのだ。そしてそれには童貞をなるだけ長く保つべきだ。
 しかし何かの運命でそれをすでに失ってしまったものはやむを得ない。そのひび[#「ひび」に傍点]の薄れるように、そのまわりに結締組織のできるように修養すべきだ。傷をいやすレーテの川、忘却というものも自然のたまものだ。絶対的にのみ考えなくてもいい。童貞の青年といえども、すでに自慰を知らぬものはなく、肉体的想像力を持たぬものもあり得ない。全然とり返しがつかぬという考え方はこれは天国的なものでなく、悪魔の考え方である。
 しかし童貞を尊び、志向を純潔にし、その精神に夢と憧憬とを富ましめるということは、青年の恋愛にとって欠くべからざる心がけである。

     五 相互選択と男性のイニシアチヴ

 青年男女はその性の選択によって相互に刺激し合い、創造と淘汰との作用がおのずと行われる。青年や、娘の美の新しい型が生み出される。これは個人と個人との間だけでなく、ひとつのゼネレーションを通じてもあらわれる。青年たちがみな健康な、朗らかな、感覚的で多少茶目なところのある娘たちを要求すれば、そうした娘たちがあらわれてくる。娘たちが逞しく、しかし渋みがあって、少し憂鬱な青年を好めばそうした青年が本当にあらわれてくる。かようにしてクローデット・コルベールに似た娘や、クラーク・ゲーブル型の青年がちまたに見られるようになるのだ。
 これは恐ろしいことだ。青年たちがどんな娘を好み娘たちがどんな青年を欲するかは実に次のゼネレーションの質と力と色とを動かすのだ。
 そこで青年男女には、人類の健康と進
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