懐疑に陥らざるを得ない。殺すは悪、恵むは善というような意欲の実質的価値判断を混うるならば、祖国のための戦いに加わるは悪か、怠け者の虚言者に恵むは善かというような問いを限りなく生ずるであろう。東洋の禅や、一般に大乗的な宗教の行為の決定に形式の善をとって、実質の善をとらないのもそのためなのである。行為の決定の徹底的な正しさを追究するときには、カントのように純に意志そのものの形式によらざるを得なくなるのは当然であって、この意味で私は新カント派のリップスや、コーヘンの「純粋意志の倫理学」が、現象学派のハルトマンや、シェーラーの「実質的価値の倫理学」よりも共鳴されるのを禁じ得ない。
しかしそれはわれわれが行為決定の際の倫理的懐疑――それは頭のしん[#「しん」に傍点]の割れるような、そのためにクロポトキンの兄が自殺したほどの名状すべからざる苦悩であるが――から倫理学によって救済されんことを求めるからであって、そのほかの観点からすれば、形式主義の倫理学は生の現実について貧困であることはいうまでもない。意欲そのものの善悪、いかに意欲するかでなく何を意欲するかの実質内容につき道徳的判断を下したいのはま
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