承するリップスの倫理学の定義であるが、かかる倫理学が答え得ることは人間の意志そのものの形式に終始せざるを得ず「いかに」のみに答えて、「何を」に答えることができない。「何々せよ」「何々するなかれ」と命ずることができずに、「いかようにせよ」「いかようにす」など命じ得るのみである。たとえばキリストの山上の垂訓にあるように、「隣人を愛せよ」とか「姦淫するなかれ」とか発言することができずに、「汝の意欲の準則が普遍的法則たり得るように行為せよ」とか、「汝の現在の態度について、汝自身に忠実であり得るように態度をとれ」とかいい得るのみである。すなわち人間のあらゆる積極的な意欲はことごとく、道徳の実質であって道徳律はその意欲そのものを褒貶《ほうへん》するのでなく、その意欲間の普遍妥当なる関係をきめるのである。しかしながらこの意欲そのもの、すなわち生の実質にかかわりなく純粋に形式的に行為を決定するということは、実は非常に意味のあることであって、私見によれば、われわれはかくするときにのみ道徳的懐疑を免れ得るのである。行為の決定にあたって、ひとたびわれわれが生の実質的価値の高下の判断を混うるや否や、それは必ず
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