る。「自由」とは決定されていないという意味ならわれわれには自由は存在しない。その決定が自己以外の原因によらず、全く自己にもとづいているという意味が自由なのである。
 われわれが、「別の決定もなし得たのだ」と思うのは、他の決定を可能にするような別の動機が当時の心中に存在していたことを知っているからだ。しかもそうしなかったのはさらにより強い動機がわれわれの態度を決定させたからだ。
 この際より強い動機が決定させたということを強制ととるのは無意味である。何故なら強制には強制者と被強制者とが対立せねば無意味であるが、この場合にはより強い動機とは自分の意欲にほかならぬ、自己が自己を強制するとはナンセンスである。自由とは意欲が人格によって規定されるという意味である。したがってかくの如き人格が道徳的評価を受けるのである。
 しかしかかる評価とは、かく煙を吐く浅間山は雄大であるとか、すだく虫は可憐であるとかいう評価と同じく、自然的事実に対する評価であって、その責任を問う道徳的評価の名に価するであろうか。ある人格はかく意志決定するということはその人格の必然である。彼が盗むということは彼の人格がそうしないわけにはいかないのであり、リップスがいうように、そのような人格故に卑しむべしと評価することはもとより可能であり、その評価はたしかに人格価値の評価ではあるが、それは盗む鼠に対するのと同じ評価であり、彼にそれを禁じる動機が存しなかったからといって、彼は責められるわけはないはずである。このことは変質者や、精神病者の場合には一層明らかである。色情狂はたしかに卑しむべきだ。そしてその卑猥の行為は疑いもなく、彼の人格に規定されている。しかし彼は道徳的評価の責に耐えるであろうか。責に耐えるとはどうしても、そうせぬことが可能であった場合でなくてはならぬ。人格に規定される故に自由であるという自由と責任の観念とは両立し得ない。しかしそれかといって、外部からも、人格からも、規定されないで、意志を決定するという意味の自由は事実上存在しない。しからば自由の意識そのものは不可解のものになる。リップスもいうように、非決定論の自由は意欲が因果律に従うことをこばむものである。しかし因果律は先験的な精神の法則であって、これに従わずに思考することはわれわれにはできない。それなら非決定的の自由とは思考ではなく、その放棄であろ
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