うか。
 ニコライ・ハルトマンはこの点に触れて、カントの「積極的自由」の思想をあげて、その功績としている。カントは外の世界も、内の世界も徹頭徹尾因果律に支配されているとして、因果関連からの自由を否定した。自由とは第一原因が因果関連の中に入りこむこととした。自由とは自然法則に従って進行する一系列の現象を自ら始める絶対的に自発的な原因または能力と呼んだ。すなわち、「何々からの自由でなく、規定の一つ多い積極的自由である。規定が一つ減じることは因果律が許さないが、一つ増加することは差支えない。しからばかかる規定者はどこからくるか。カントは人間の英知的性格の中にその源を求めた。しかし自由を現象界から駆逐して英知的の事柄としたのでは、一般にカントの二元論となり終わり、われわれの意識を超越した英知的性格の行為にわれわれが責任を持つということが無意味になってしまう。
 ハルトマンはかかる積極的な規定者がわれわれの意識の中にある証拠として、一切の行為、情操に伴う自己規定の意識、責任の感、罪の意識をあげているが、これらを合理化するためにこそ自由を証明したいのである。
 ハルトマンはこれらのものから自由を証明できないが、不自由は一層証明し難い、というのみである。
 詮ずるところ、われわれは決定論によっても、非決定論によっても、自由の満足なる説明を今のところ見出し得ない。この倫理学上の根本問題は謎として残されている。われわれがこの上もなく明らかな自覚を持って疑わぬ自由の意識と責任の感を、合理的に説明できないということは実に人性の構造の神秘というほかはない。

     六 種々の視点への交感

 教養としての倫理学研究は必ずしも一つの立場からの解決を必要としない。人間の倫理観のさまざまなる考え方、感じ方、解決のつけ方等をそれぞれの立場に身をおいて、感味して見るのもいい。それは人間としての視野をひろくし、道徳的同情を豊かに、細緻にするからだ。
 近世倫理学史も、哲学史のように、カントに集まって、カントから出て行く。カントの形式的倫理学に反対したのは実質的倫理学だけではなく、ギヨーや、ディルタイの如き生命主義の倫理学や、フォイエルバッハから、エンゲルス、マルクス、カウツキーにいたる社会主義の倫理学がある。今これらを詳述する紙幅はないが、ギヨーは『義務と制裁のない道徳論』において、生命の維持特に
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