て、これは社会的人間に鋳直すことにより、人格主義と社会幸福主義とを、本質的に止揚して調和せしめんとする傾向を帯び来たったことに注意すべきである。
 すなわち人格とは真の人間[#「人間」に傍点]の意味であり、人間とは個人のいいでなく、共同生活態の連関の中にある、「我」と「汝」と全体との、相互に対立しつつ、しかもひとつに融け合っている姿における人[#「人」に傍点]である。かかる人間はアトム的な個人の人格と人格とが、後から相互の黙契によって結びつき、社会をつくるのでなく、当初から相互融入的であり、その住居、衣食、言語風習まで徹頭徹尾共同生活態に依属しているところの、アトム的ならぬ共同人間である人倫の事実は外に表現されて客観的社会となって厳存する。道徳は単に主観の事実として、個人の心の内面に在るのではなく、客観の事実として、外の共同態に表現されている。人格とはかかる意味の人間でなくてはならぬ。人の道とは同時に世の中の道である。人格を磨くとは世の中をよくすることである。
 人格という意味をかかる共同人間の意味に解するならば、人格主義はその独善性から公共に引き出され、社会活動がその内面性の堕落かの如き懸念から、解放されて社会的風貌を帯びて行くであろう。一方では「社会公共の幸福」なる意味も、第一にその社会公共の意味が、アトム的個人の協定でなく、「我」と「汝」と全体との相互回入の共同態でなくてはならず、その「幸福」の意味も個人的快楽から導かれたものでなく、質的な精神的高さを持ったものに浄化されなくてはならない。かくして真の人間の立場から全体主義の人間倫理学がつくられて行くことが来たるべき史的展望ではあるまいか。
 最後に倫理学の最も深き、困難な根本問題として「意志の自由」の問題がある。
「意志の自由」とは普通には、行為の選択の自由のいいである。一つの行為をなすまいと思えば為さずにすんだのに、為したという意味である。しかし反省すればこれは不思議なことである。意志決定の際、われわれはさまざまの動機の中から一つの動機を選択してこれを目標としたのだ。しかしこの際それらの動機がそれぞれの強さで存在せぬということをわれわれはその瞬間に企てることはできない。故に事実は一つの動機は選ばれないわけにはいかなかったのだ。それを選ばぬことは可能でなかったのだ。リップスによれば、これは疑いもなく決定論であ
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