た。初めは快、不快な結果を好悪する心から徳、不徳を好悪したのだが、広く連想をくりかえすうちに、直接に徳、不徳を好悪するようになった。これが道徳的感情である。行為の価値は永続する、そして不快を結果せぬ快楽、すなわち幸福を生ずるところにあり、社会の幸福をもたらす行為が善である。ロックも、ヒュームも、ミルも幸福主義である。利己的であれ、利他的であれ、個人であれ、社会であれ、ともかくも道徳の目的を福利においている点は同じである。これはいかにも常識的なイギリスに栄えそうな倫理学である。しかし幸福説は道徳的意識の深みと先験性とをどうしても説明し得ない。それは量的に拡がり得るが質的のインテンシチイにおいてはなはだ足らず、心奥の神秘を探究するのにいかにも竿が短かい。幸福主義は必ず結果主義と結びつき、動機を重んずる人格主義と対立するが、道徳的価値の中核が動機になくてはならぬのは当然なことであって、結果の連想から生じたるものなら道徳の名に価しない。また幸福説は敬の感情を説明し得ない。心の深い人は到底幸福説で満足できるものではない。これはアングロ・サクソンの倫理学である。ニイチェの如きは「最大多数の最大幸福主義」を賤民の旗じるしとして軽蔑している。がそれにもかかわらず、社会的、政治的の実行上の目標は結局この旗じるしの下に動いて来ていることは争われない。種々の社会政策、社会慈善事業、公共施設、社会改革運動等は大むねこの目標の下に行なわれている。常識的ではあるが実際の社会に影響を及ぼし、主義を実現する勢力の強いことはアングロ・サクソンの政治の如くである。しかしわれわれはそれに眩惑されてはならぬ。幸福主義は決して道徳の究竟ではない。依然として第二義的の価値である。何が幸福かと問うとき、幸福の質を認めねばならず、かかる質的のものは幸福そのものの中からは導き出せない。「最大多数の最大幸福」は、ニコライ・ハルトマンのいわゆる「強き価値」であって、「高き価値」ではない。高き価値が実現せられるためには、先決の必要な地盤ではあるが、それは高き価値がその地盤の上に実現されんがためである。高き価値そのものは飽くまでも性質的なる人間の価値、人格の価値である。
最近の人間学的な倫理学の方向が、この社会幸福主義を性質的に高め、浄化させんがために、一方では人格主義の、いわゆる人格の意味を、個人主義的な桎梏から解放し
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