な、自由な、地味なしんみ[#「しんみ」に傍点]の、愛に深まっていく。恋愛よりも、親の愛、腹心の味方の愛、刎頸《ふんけい》の友の愛に近いものになる。そして背き去ることのできない、見捨てることのできない深い絆《きずな》にくくられる。そして一つの墓石に名前をつらねる。「夫婦は二世」という古い言葉はその味わいをいったものであろう。
 アメリカの映画俳優たちのように、夫婦の離合の常ないのはなるほど自由ではあろうが、夫婦生活の真味が味わえない以上は人生において、得をしているか、失っているかわからない。色情めいた恋愛の陶酔は数経験するであろうが、深みと質とにおいて、より貴重なものを経験せずに逸するなら、賢く生きたともいえまい。深い心境を経験しないですますことは、歓楽を逃がすより、人生において、より惜しいことだからだ。そして夫婦別れごとに金のからんだ訴訟沙汰になるのは、われわれ東洋人にはどうも醜い気がする。何故ならそれだと夫婦生活の黄金時代にあったときにも、その誓いも、愛撫も、ささやきも、結局そんな背景のものだったのかと思えるからだ。
 権利思想の発達しないのは、東洋の婦人の時代遅れの点もあろうが、わ
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