セ靄《もや》である。氏はまことに質素な襟飾りを着けた敬虔な哲学者であり、その体系は小じんまりと整頓した研究室をぼんやりと照らす蒼ざめたランプのように典雅な上品なものである。そこには氏の人格の奥床《おくゆか》しささえ窺われて、確信のそのまま溢れたような飾り気のない文章は氏の内面の生活の素朴を思わせ、人をしてすずろに尊敬の念を起こさせるのである。
氏の著書としては『善の研究』が一冊あるのみである。その他世に公けにせられたのは「法則」(哲学雑誌)、「ベルグソンの哲学研究法」(芸文)、「論理の理解と数理の理解」(芸文)、「ベルグソンにつきて」(学芸大観)、「宗教的意識」(心理研究)、「認識論者としてのポアンカレ」(芸文)等の数篇の論文がある。しかしこれらはみな個々の特殊な問題について論じられた断片的なものであって、氏の哲学思想全体が一つの纏ったる体系として発表せられたのは『善の研究』であって、氏の哲学界における地位を定むるものもこの書であることはいうまでもない。この書は十年以前に書き始められたのであって、今日の思想はいくぶんかこれよりも推移し発展しているからいつか書き替えたいと思ってるが、その根本思想は今日といえども依然として変じないといっておられる。しかのみならず、氏みずから語るところによれば五十歳を過ぎるまでは大きな著述はしないとのことであれば(氏はいま四十三歳である)、われらが氏の沈痛なる思索を傾注せられた結果として、深遠な思想の盛り溢れた重々しき第二の著書を手にするときはなお遠いことと思うから、ひとまず前述の著書および論文に表われたる氏の思想およびこれらを透して窺《うかが》わるる氏の人格について論じてみたいと思うのである。私はみずから揣《はか》らずして氏の思想の哲学的価値に関して、是非の判断を下そうとするのではない。哲学者としての氏の思想および人格をあるがままに、一の方針の下に叙述しようと試みるのである。論者の目的は氏の解釈である。その態度は valuation でなくして exposition である。
二
青草を藉《し》いて坐《すわ》れ。あらゆる因襲的なる価値意識より放たれて、裸のままにほうり出されたる一個の Naturkind として、鏡の如き官能を周囲に向けてみよ。大きな蒼い円味を帯びた天はわれらの頭上に蔽い被ぶさって、光をつつんだ白雲はさりげなく漂うてる。平らかな堅い地はほしいままに広くわれらの足下に延びて、水は銀のごとくきらめき流れる。風の落ちた大原野に、濡れたる星は愁わしげにまたたけば、幾千万の木葉はそよぎを収めて、死んだように静まり返る。そしてわれらのうら寒い背をかすめて永遠の時間が足音を忍んでひそかに移り行くのを感ずるとき、われらの胸にはとりとめのない寂寥が影のように襲うであろう。眼前に眉を圧して鬱然として反り返る大きな山は、今にも崩れ落ちてかぼそい命を圧し潰《つぶ》しはすまいか。ああわれらは生きている。ほそぼそと溜息を漏らしつつ生きているのだ。われらの生命の重味を載する二本の足のいかに心細くも瘠せて見ゆるではないか!
このとき来ってわれらに絶大なる価値を迫るものは認識である。われらが認識するという心強き事実である。主観を離れて客観は成り立たない。万象はことごとくその影をわれらの官能の中に織り込んでいる。かばかりいかめしき大自然の生成にわれらの主観が欠くべからざる要素であることに気がつくとき、われらはいまさらのごとく生命を痛感せずにはいられない。われらの享《う》ける一個の小さき ego のなかに封じられたる無限の神秘を思わずにはいられない。かくて眼前に横たわる一個の石塊もわれらにとっては不可思議であって、彼我の間の本質的関係を考えずには生きられなくなる。じつに認識の「おどろき」はいのちの自覚である。深遠なる形而上学はこの「おどろき」より出発しなければならない。『善の研究』が倫理を主題としながらも認識論をもって始まっているのは偶然でない。私はまず氏の哲学の根本であり、骨子である認識論より考察を始めなければならない。
氏の認識論の根底は radical empiricism である。厳粛なる経験主義である。近世哲学の底を貫流する根調である経験的傾向を究極まで徹底せしめて得たる最醇《さいじゅん》なる経験である。自己の意識状態を直下に経験したときいまだ主もなく客もなき、知識と対象とが全く一致している、なんらの思惟《しい》も混じない事実そのままの現在意識をもって実在とするのであって、氏はこれを純粋経験と名づけている。近世の初め、経験論を力説したのはベーコンであるが、その経験という意義が粗笨《そほん》であったために、今日の唯物論を導いたのであるが、西田氏はこの語の意義を極度まで純化することによって、かえって唯物論を裏切り、深遠な形而上学を建設したのである。経験という語と形而上学という語とは哲学史上背を合わしてきているにもかかわらず、氏の体系においては経験はただちに形而上学の拠って立つ根底である。これは氏の哲学の著しい特色といわなければならない。氏はいたるところ唯物論の誤謬を指摘して、実在の真相の解釈としての科学の価値を排斥しているが、その排斥の方法は科学の拠ってもっておのれを支持する基礎である、いわゆる経験を吟味して「それは経験ではない、概念である」と主張するのである。これほど肉薄的な根本的な、そして堂々とした白日戦を思わせるような攻撃の仕方はあるまい。
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唯物論者《ゆゐぶつろんしや》や一般の科学者は物体が唯一《ゆゐいつ》の実在であつて、万物は皆物力の法則に従ふと言ふ。しかし実在の真相は果《はた》してかくの如《ごと》きものであらうか。物体といふも我々《われわれ》の意識現象を離れて、別に独立の実在を知り得るのではない。我々に与へられたる直接経験の事実は唯《ただ》この意識現象あるのみである。空間も時間も物力も皆この事実を統一説明するために設けられたる概念である。物理学者の言ふやうなすべて我々の個人の性を除去したる純物質といふ如きものは、最も具体的事実に遠ざかりたる抽象的概念である。(善の研究――四の三)
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しかしながら注意すべきことは氏は口を極《きわ》めて唯物論者を非難しているけれども、けっして主観のみの実在性を説く唯心論者ではないことである。氏はむしろヴントらと立脚地を同じくせる絶対論者である。ヴントが黄金期の認識として説く写象客観(Objektvorstellung)のごとく、主観と客観との差別のない、物心を統一せる第三絶対者をもって実在とするのである。この点は氏の哲学が客観世界を主観の活動の所産とするフィヒテの超越的唯心論と異なり、むしろシェリングのいわゆる das Absolute に類似するところであって氏はこれを明言している。
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元来精神と自然と二種の実在があるのではない。この二者の区別は同一実在の見方の相違より起るのである。純粋経験の事実においては主客の対立なく、精神と物体との区別なく、心即物、物即心、只《ただ》一個の現実あるのみである。かく孰《いづ》れかの一方に偏せるものは抽象的概念であつて、二者合一して初めて完全な具体的実在となるのである。(善の研究――四の三)
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しからばこの唯一の実在なる、現実なる絶対者よりいかにして主観と客観との対立は生ずるであろうか。
氏はこの疑問に答えて、絶対者の中に含まるる内容が内面的必然に分化発展するというのである。けだしこの説明は氏の根本の立場から見て論理的必然の結果であろう。氏は第一事実としてこの唯一実在のほか何ものをも仮定しないのであるから、もし現象の説明としてなんらかの意味において動的の要素をこれに与えなければならないならば働くものと、働きかけらるるものとの対立は一者のなかに統一されなければならない。すなわち唯一実在の自発自展でなければならない。しこうして分化発展の結果として生ずる新しき性質は可能性の形において絶対者の中に初めより含まれていなければならない。哲学は現象の複雑相を説明する統一原理を求むる学である。一と多との問題はその枢軸である。いま氏は実在として唯一絶対者を立した。この絶対者は一にして同時に多でなければならない。このことたるいかにして可能であるか。一にして同時に多であるためには、その一は数的一ではなくして部分を統一する全体としての一でなければならない。氏はこの要求よりヘーゲルの主理説にゆかねばならなかった。すなわち氏は実在をもって系統的存在となした。「すべて存在するものは理性的なり」とヘーゲルがいったように実在は体系をなしている。差別と統一とをおのれみずからの中に含んでいる。実在の根底には必ず統一が潜んでいる。統一は対立を予想している。対立を離れて統一はない。たとえばここに真に単純であって独立せる要素が実在せりと仮定せよ。しからばその者はなんらかの性質もしくは作用を有せなければならない。全くなんらの性質も作用もない者は無と同一である。しかるに作用するということは必ず他のものに対して働くのであって二者の対立がなければならない。加うるにこの二者が互いに独立して何の関係も無いものならば作用することはできない。そこにはこの二者を統一する第三者が無ければならない。たとえば物理学者の仮定する元子が実在するためには、それが作用する他の元子が存在しなければならぬのみならず、二者を統一する「力」というものを予想しなければならない。また一の性質たとえば赤という色が実在するためには、その性質と区別せらるる他の色が対立しなければならない。色が赤のみであるならば赤という色の表われ方がない。しかのみならずこの二者を統一する第三者がなければならない。なんとなれば全く相独立して互いになんらの関係のない二つの性質は比較し区別することはできないからである。ゆえに真に単純なる独立せる要素の実在ということは矛盾せる観念である。実在するものはみな対立と統一とを含める系統的存在である。その背後には必ず統一的或者が潜んでいる。
しからばこの統一的或者は常にわれらの思惟の対象となることのできないものである。なんとなればそれがすでに思考されているときは他と対位している。しこうして統一はその奥に移って行くからである。かくて統一は無限に進んで止まるところを知らない。しこうして統一的或者は常にわれらの思惟の捕捉を逸している。われらの思惟を可能ならしめるけれども、思惟の対象とはならない。この統一的或者を神という。
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一方より見れば神はニコラス・クザウヌスなどの言つた如くすべての否定である。これと言つて肯定すべきもの、即ち捕捉すべきものがあるならば已《すで》に有限であつて宇宙を統一する無限の作用をなす事は出来ない。この点より見て神は全く無である。然《しか》らば神は単に無であるか。決してさうではない。実在成立の根柢には歴々として動かすべからざる統一作用が働いてる。実在は是によつて成立するのである。神の宇宙の統一である。実在の根本である。そのよく無なるが故《ゆゑ》に在《あ》らざる処なく、働かざる所がないのである。(善の研究――二の十)
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この氏のいわゆる神の本質に関しては、後に氏の宗教を観察するときに論ずることとしてここには主として認識論の問題より、神の認識について考えてみようと思う。
しからばわれらはいかにして、この統一的或者を認識することが可能であるか。
氏はここにおいてわれらの認識能力に思惟のほかに知的直観(intellektuelle Anschauung)をあげている。氏のいわゆる知的直観は事実を離れたる抽象的一般性の真覚をいうのではない。純一無雑なる意識統一の根底において、最も事実に直接なる、具体的なる認識作用である。知らるるものと知るものと合一せるものの最も内面的なる会得《えとく》をいうのである
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