黷轤ナある。これをしも悲痛と言おう。されどされど悲痛という言葉の底には顫えるような喜びが萌《きざ》してるではないか。悲痛に感じ得るものは充実せる生を開拓する大なる可能性を蔵してるということは今の私には天堂の福音のごとく響くよ。私はまだまだライフに絶望しない。冷たい傍観者ではあり得ない。
この夏休暇以来、君と僕との友情がイズムの相異のために荒涼の相を呈せざるを得なくなるにつれて、私の頭のなかには「孤独」という文字が意味ありげに蟠っていた。私は種々の方面からこれを覗いてみた。ああ、しかし孤独という者はとうてい虚無に等しかったのである。私が一度認識という事実に想到するとき絶対的の孤独なるものは所詮成立しなかったからである。われらは認識する。表象はわれらの意識の根本事実である。表象を外にして世の中に何の確実なる者があろう。「表象無くんば自我意識無し」元良《もとら》博士《はくし》のこの一句のなかには深遠な造蓄が含まれている。認識には当然ある種の情緒と意欲とを伴う。これらの者の統合がすなわち自我ではないか。われらは対象界に対して主観の気息を吹きかけ、対象界もまた主観にある影響を及ぼす。かかる制約の下にありながらいかにして絶対孤独に立ち得よう。ああ認識よ! 認識よ! おまえの後ろには不思議の目を見張らしむる驚嘆と、魂をそそり揺がすほどの喜悦とが潜んでいる。
最後に私は今や蕭殺たる君と僕との友情を昔の熱と誠と愛との尊きに回《めぐら》さんとの切実なる願望をもって、君の利己主義に対して再考を乞わねばならない。
君と僕との接触に対する意識が比較的不明瞭であって、友情の甘さのなかに無批評的に没頭し得た間はわれらはいかに深大なる価値をこの接触の上に払い、互いに熱涙を注いで喜んだであろう。しかし一度利己、利他という意識が萌したときわれらは少なからず動揺した。惨澹たる思索の果て、ついに唯我論に帰着し、利己主義に到達したる君はまっ蒼な顔をして「君を捨てる!」と宣告した。その声は慄えていた。鋭利なる懐疑の刃をすべての者に揮うた君は、轟《とどろ》く胸を抑えて、氷なす鉾尖《ほこさき》を、われらの友情にザクリと突き立てた。その大胆なる態度と、純潔なる思索的良心には私は深厚なる尊敬を捧げる。僕だって君との接触についてこの問題に想到するときどれほど小さい胸を痛めたかしれない。始めから利己、利他の思想の頭を擡《もた》げなかったならばと投げやりに思ってもみた。しかしこの思想は腐った肉に聚《あつま》る蠅のごとくに払えど払えど去らなかったのである。このとき私の頭のなかにショウペンハウエルの意志説が影のごとくさしてきた。
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表われた世界は意志の鏡であり、写しである。この世界にあっては時間と空間という着物を着て万物は千差万別、個体として鬩《せめ》ぎ合ってる。しかし根拠の原理を離れた世界、すなわち本体界にあって、万物の至上の根源、物自爾としての実在は差別無く、個体としてでなき渾一体の意志である。この渾一体の意志は下は路上に生《お》うる一葉より、上は人間に至るまで、完全に現われている。たとえばその意志は幻燈の火のごときものである。ただ映画によって濃きも淡きも生じて白い帷《とばり》の上にさまざまの姿を映す。そのさまざまの姿こそ万物である。
[#ここで字下げ終わり]
これに次いで前述の認識、表象という文字が湧き起こる。主観を離れて客観はなく、客観を離れて主義はない。これに連接せしめて「表象なくば自己意識なし」ということを考えてみれば、どうも自己意識は絶対的には成立せぬらしい。唯我論は動揺せねばならない。いわゆる、利己、利他の行動は、本来この偉大なる渾一体としての意志の発現ではあるまいか。本体界の意志という故郷を思慕するこころは宗教の起源となり、愛他的衝動の萌芽となるのではあるまいか。これじつに遠深なる形而上学の問題である。
何が人生において最もよきことぞと問い顧みるとき、官能を透してくる物質の快楽よりも、恋する女と、愛する友と相抱いて、胸をぴたりと融合して、至情と至情との熱烈なる共鳴を感ずるそのときである。魂と魂と相触れてさやかなる囁きを交すとき人生の最高の悦楽がある。かかるとき利己、利他という観念の湧起する暇は無いではないか。もしかかる観念に虐げられてその幸福を傷つけるならば、その人はみずからの気分によりてみずからを害《そこな》うものである。気分というものは人生において大なる権威をなすものだ。君は君の本性と正反対の気分をもって反動的にイリュウジョンを作り、それに悩まされているのではあるまいか。
君は他人は自分の「財」として、すなわち自分の欲求を満足せしむる材料としてのみ自分にとって存在の理由があるという。しかし、ここが問題である。私は他人との接触そのものを大なる事実であり、目的であると考えたい。たとえば相愛する女と月白く花咲ける籬《まがき》に相擁して、無量の悦楽を感じたとする。このときの情緒そのものが大なる目的ではないか。この情緒の構成要素としては女の心の態度、用意、気分またはその背後に潜む至情が必要であるとともに君の心のこれらの者も同時に必要である。この際しいて女を手段と見るならば、君自身をも同様に手段と見ねばなるまい。君は自他の接触をばあまり抽象的に観察してはいまいか。愛らしい女がいるとする。これを性欲の対象として観るとき、そこに盲目的な、荒殺の相が伴う。これを哲学的雰囲気のなかに抱くとき、尊き感激は身に沁み渡って、彼女の長き睫《まつげ》よりこぼるる涙はわれらの膝を潤すであろう。虞美人草《ぐびじんそう》の甲野さんが糸子に対する上品な、優しい気持ちこそわれらの慕うところである。私は君との友情のみはあらゆる手段を超越せる尊厳なる目的そのものだとしか思えない。君よ! 哲学的に分離せんとしたわれらは再びここに哲学的に結合しようではないか。哲学の将来はなお遼遠である。ともに思索し、研究し、充実せる生を開拓しよう。この頃私は「生きんがため」という声を聞けば一生懸命になるんだ。耳を澄ませば滔々《とうとう》として寄せ来る唯物論の大潮の遠鳴りが聞こえる。われらは、pure experience と Vorstellung との城壁に拠ってこの自殺的真理の威嚇の前に人類の理想を擁護せねばならない。
ああ愛する友よ、わが掌の温けきを離れて、蘆《あし》そよぐ枯野の寒きに飛び去らんとするわが椋鳥《むくどり》よ、おまえのか弱い翼に嵐は冷たかろう。おまえに去られて毎日泣いて待っている私のところへ、さあ早く帰ってお出で。
[#地から2字上げ](一九一二・二)
[#改ページ]
生命の認識的努力
一
われらは生きている。われらは内に省みてこの涙のこぼるるほど厳粛なる事実を直観する。宇宙の万物は皆その影をわれらの官能の中に織り、われらの生命の内部に潜める衝動はこれに能動的に働きかけて認識し、情感し、意欲する。かくて生命はおのれみずからの中に含蓄的(implicit)に潜める内容をしだいに分化発展してわれらの内部経験は日に日に複雑になってゆく。この複雑なる内部生命はおのれみずからの存在を完全ならしめ、かつ存在の意識を確実にせんがために、表現の道を外に求めて内に蠢動《しゅんどう》する。いうまでもなく芸術と哲学とはこの内部生命の表現的努力の二途である。ただ前者が具体的に部分的に写出する内部経験を後者は概念の様式をもって、全体として(as a whole)統一的に表現するのである。かくて得られたる結果は内部生命の投射であり、自己の影であり、達せられた目的は生命の自己認識である。
われらの生命は情意からばかりはできていない。生命は知情意を統一したる分かつべからざる有機的全体である。われらの情意が芸術のはなやかな国に、情緒生活の潤いを追うてあこがれるとともにわれらの知性は影の寒い思索の境地に内部生命の統一を求めて彷徨しなければならない。じつにわれらは日々の現実生活において血の出るような人格の分裂を経験せずにはいられない。この素《もと》より分かつべからざる有機的なる人格が生木を割くがごとく分裂するということはわれらの生命の系統的存在の破壊であって、近代人の大きな悩みであり、迷いでなければならない。なんとなればすべて生命あるものは系統的存在であって、系統の破壊はただちに生命そのものの滅却であるからである。これじつに空疎なる主観と貧弱なる周囲とがもたらす生命の沈滞荒廃よりもわれらにとっていっそう切実なる害悪であり、苦悩である。
このゆえにちぎれちぎれの刹那に立って、個々の断片的なる官能的経験を漁《あさ》りつつ生活の倦怠より遁《のが》れんとする刹那主義者はしばらく措《お》き、いやしくも全部生命(whole being)の本然的要求の声に傾聴して統一せる人格的生活を開拓せんとする真摯なる個人は必ず芸術とともに哲学をも要求せずにはいられない。これじつにわれらの飽くことを知らざる知識欲の追求にあらずして、日々の実際生活に眉近く迫れる痛切なる現実の要求である。ここにおいてわれらは大いなる期待と要求とをわが哲学界の上に浴びせかけねばならなかった。
わが国の哲学界を見渡すときに、われらはうら枯れた冬の野のような寂寥《せきりょう》を感ずるよりも、乱射した日光に晒《さら》された乾からびた砂山の連なりを思わされる。主なき研究室の空虚を意識せぬでもないが、それよりも街頭に客を呼ぶあさはかな喧騒を聞くような気がする。近代の苦悩を身にしめて、沈痛なる思索をなしつつある哲学者はまことに少ない。まれに出版される書物を見れば通俗的な何々講習会の講演の原稿が美装を凝《こ》らして現われたのにすぎない。著者の個性のあらわれた独創的な思想の盛りあげられた哲学書はほとんどない。深刻な血を吐くような内部生活の推移の跡の辿《たど》らるるような著書は一冊もない。そればかりではない。彼らは国権の統一にその自由なる思索の翼を搦《から》まれている。ローマ教会の教権が中世哲学に累《るい》したごとく、国権がわが現今の哲学界を損うてる。彼らの倫理思想のいかに怯懦《きょうだ》なることよ。彼らは蒼《あお》い弓なりの空と、広くほしいままに横たわる地との間に立って、一個の自然児として宇宙の真理を説く思想家ではない。それどころではない。われらと同じく現代の空気を呼吸して生き、現代の特徴をことごとく身に収めて、時代の悩みと憧憬とを理解せる真正なる近代人さえもまれである。彼らはわれら青年と mitleben していない。両者は互いの外に住んでいる。その間にはいのちといのちの温《あたた》かな交感は成り立たない。
この乾燥した沈滞したあさましきまでに俗気に満ちたるわが哲学界に、たとえば乾からびた山陰の瘠《や》せ地から、蒼《あお》ばんだ白い釣鐘草の花が品高く匂い出ているにも似て、われらに純なる喜びと心強さと、かすかな驚きさえも感じさせるのは西田幾多郎《にしだきたろう》氏である。
氏は一個のメタフィジシャンとしてわが哲学界に特殊な地位を占めている。氏は radical empiricism の上に立ちながら明らかに一個のロマンチックの形而上学者である。氏の哲学を読んだ人は何人も淋しい深い秋の海を思わせらるるであろう。氏みずからも「かつて金沢にありしとき、しばしば海辺にたたずんで、淋しい深い秋の海を眺めては無量の感慨に沈んだが、こんな情調は北国の海において殊にしみじみと感じられる」と言っていられる。まことに氏の哲学は南国の燃え立つような紅い花や、裸体の女を思わせるような情熱的な色に乏しく、北国の風の落ちた大海の深い底を秘めて静まり返ってるのを見るような静穏なものである。その淋しい海の面に夢のように落ちる極光のような神秘な色さえ帯びている。色調でいわば深味のある青である。天も焦《こ》げよと燃えあがる※[#「火+稻のつくり」、第4水準2−79−88]の紅ではなく、淋しい不可思議な花の咲く秋の野の黄昏《たそがれ》を、音もなく包む青ばん
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