Bわれらの思惟の根底には明らかにこの知的真観[#「真観」はママ]が横たわっている。われらは実在の根本に潜む統一的或者を思惟の対象として外より知ることはできないけれど、みずから統一的或者と合一することによりて内より直接に知ることができるのである。時間空間に束縛されたるわれらの小さき胸のなかにも実在の無限なる統一力が潜んでいる。われらは自己の心底において宇宙を構成せる実在の根本を知ることができる。すなわち神の面目を捕捉することができる。ヤコブ・ベーメのいったごとくに「翻《ひるがえ》されたる目」をもてただちに神を見るのである。かくいえば知的直観なるものははなはだ空想的にして不可思議なる神秘的能力のごとく思われる。あるいはしからずとするも、非凡なる芸術的、哲学的天才のみの与《あずか》ることを得る超越的認識のごとく思われる。しかしけっしてそうではない。最も自然にして、原始的なるわれらに最も近き認識である。鏡のごとく清らかに、小児のごとく空しき心にただちに映ずる実在の面影である。

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 知的直観とは純粋経験に於《お》ける統一作用そのものである。生命の捕捉である。即ち技術の骨の如きもの、一層深く言へば美術の精神の如きものである。例へば画家の興来たり、筆自ら動くやうに複雑なる作用の背後に統一的或者が働いてる。その変化は無意識の変化ではない。一者の発展完成である。この一者の会得が知的直覚である。普通の心理学では単に習慣であるとか、有機作用であるとか言ふであらうが、純粋経験の立場より見れば、これ実に主客合一、知意融合の状態である。物我相忘じ、物が我を動かすのでもない。我が物を動かすのでもない。只《ただ》一の光景、一の現実があるのみである。(善の研究――一の四)
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 氏の認識論においては to know はただちに to be である。甲のみよく甲を知る。あるものを会得するにはみずからそのものであらねばならない。野に横たわる一塊の石の心は、みずから石と合致し、石となるときにのみ知ることができる。しからざるときは主観と石とが対立し、ある一方面から石を覗《のぞ》いているのであって、ある特定の立場から石を眺めてこれを合目的の知識の系統に従属せしめんとするのである。いまだ石そのものの完全なる知識ではないのである。すべての科学的真理はかかる性質の知識であって、われらの生活の実行的意識の理想から対象物を眺めたる部分的、方法的なる物の外面的の知識系統であって、物そのものの内面的なる会得ではない。ここにおいて氏の認識は科学者の分析的理解力よりも、詩人の直観的創作力に著しく接近してきて、われらをして科学的真理の価値の過重からきたる器械的見方の迷妄より免れしめ、新しくて、不思議の光に潤うたる瞳をもって自然と人生とを眺めしめるのである。

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 ハイネは静夜の星を仰いで蒼空に於ける金の鋲《びやう》と言つたが、天文学者はこれを詩人の囈言《うはごと》として一笑に付するであらうが、星の真相はかへつてこの一句の中に現はれてゐるかも知れない。(善の研究――二の三)
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 氏の知的直観はじつに認識作用の極致であって、氏の哲学の最も光彩ある部分である。
 つぎにわれらは氏とプラグマチズムとの関係を考えてみなければならない。氏の認識論の経験を重んじ、純粋なる経験のほかには絶対的に何ものをも認めない点においてはプラグマチズムの出発点と同一である。氏のいわゆる純粋経験はプラグマチズムの主唱者であるゼームスの pure experience の和訳である。そのゼームスが自己の認識論の立脚点をプラグマチズムと名づけたのはピアースの用語を踏襲したのであって、それまでは Radical empiricism と呼んだのである。その意味は経験のほか何ものをも仮定せずというにある。してみれば西田氏の認識論の出発点はプラグマチズムであるといっても差支えはあるまい。しかしながらこれをもってただちに氏をプラグマチストと解釈するならば大なる誤解である。少なくとも田中王堂氏がプラグマチストであるがごとき意味において、西田氏はけっして単なるプラグマチストではない。氏は認識論の出発点としてはプラグマチズムの純粋経験を採るにもかかわらず、真理の解釈に関してはプラグマチズムと背を合わせたるがごとき態度を持している。すなわちプラグマチズムは真理の解釈に関して著しく主観的態度をとり、真理の標準は有用であり、実際的効果であり、われらの主観的要求がすなわち客観的事実であるというのである。しかるに西田氏は真理の解釈に対して厳密に客観的態度をとり、主観の混淆を避け、主観的要求によりて色づけらるる意味を斥《しりぞ》けて、純粋に事実そのままの認識をもって真理とするのである。プラグマチズムの真理は氏より見れば一つの実行的理想を立てて、これに適合するように対象物を一の特定の方面より眺めたる相対的真理にすぎない。いまだ物そのものの最深なる真相ではないのである。最深の真理はわれらが実行的目的より離れて、純粋に事実に即し、物そのものと一致して得る会得である。ショウペンハウエルのいわゆる「意志を離れたる純粋認識の主観」となって、事物の内実本性を直観するのである。さればとて氏は主観を離れて真理の客観的実在性を説くのではもちろんない。氏は真理に対して主観と客観とを超越せる絶対的実在性を要求するのである。

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 我々が物の真相を知るといふのは自己の妄想臆断《まうさうおくだん》即ちいはゆる主観的のものを消磨し尽し物の真相に一致した時始めて之《これ》を能《よ》くするのである。我々は客観的になればなるだけ物の真相をますます能く知る事が出来る。(善の研究――四の五)
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 と論じているのを見ても、また認識論者としてのポアンカレを論じて、真理が単に主観的なコンベンショナルな、学者が人工的に作為したるもので、単に便利なものとはいえない、真理は経験的事実に基づいたものであることを主張しその論文の末段に、

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 ポアンカレは単に有用なるものは真理であるとか、思惟《しゐ》の経済といふやうなことで満足し得るプラグマチストたるにはあまりに鋭き頭を持つてゐた。氏は何物も自己の主観的独断を加へない。種々の科学的知識を解剖台上に持来《もちきた》つて、明らかに物そのものを解剖して見せたのである。(芸文――十月号)
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 と評しているのを見ても氏がみずからをプラグマチズムに対して持する態度を知るにはあまりあるであろう。プラグマチズムは敬虔にして、情趣|濃《こま》やかなる人々の歩むにはあまりに平浅な道である。西田氏がプラグマチズムに発しながら、プラグマチズムに終わらなかったのは、その原因を氏の個性の上に帰せねばなるまい。氏はもののあわれを知るロマンチストである。その歩む道には青草と泉とがなければならなかった。蒼い空を仰いでは群星の統一に打たれ、淋しい深い北国の海を眺めて、無量の哀調を聞くことを忘れざる西田氏は、ベルグソンの神秘とヘーゲルの深遠とを慕うて、その哲学体系を豊かに、潤いて、物なつかしく、深くして、不思議にした。氏の哲学はじつに概念の芸術であり、論理の宗教である。

       三

 われらが自己に対して最高の尊敬の情を感ずるのは、われらが道徳的意識の最深の動因によりて行動したりと自覚するときである。われらが自己の胸底に最醇の満足を意識するのはみずから正善の道を蹈《ふ》めりと天に対して語り得るときである。われらが自己の生命の発露に最も強き力を感ずるのは、自己の内面的本性の要求に従いて必然的に動きし刹那である。万人はことごとく詩人たり、哲人たるを要しない。ただあらゆる人間は善人でなければならない。道義の観念は全人類に普汎的に要求さるべき人間最後の価値意識である。われらは善人たらんとする意志の燃焼を欲する。ただわれらは因襲的なる不純、不合理なる常識道徳の束縛に反抗する。天地の間に大自然の空気を呼吸して生ける Naturkind として赤裸々なる心をもって真新なる道徳を憧憬する。われらが渇けるがごとくに求めつつある善の概念の内容は自然の真相と性情の満足とに併《あわ》せ応うる豊富にして徹底せるものでなければならない。
 西田氏がその著に冠するに『善の研究』の名をもってしたのはこの問題が思索の中心であり、根本であると考えたからである。
 道徳的意識は当然意志の自由という観念を予想してる。これを認めないならば道徳は所詮迷妄にすぎない。ある動機よりある行為が器械的必然に決定せらるるならば、われらはその行為に対して責任の観念を有することは不可能だからである。氏はまず意志の自由を承認しかつその範囲および意義をきわめて徹底的に研究している。氏は意志の自由の範囲を限定して、観念成立の先在的法則の範囲において、しかも観念結合に二個以上の道があり、これらの結合の強度が強迫的ならざる場合においてのみ全然選択の自由を有することを明らかにした。さてしからば自由の意義|如何《いかん》。
 自由には二種の意義がある。一はなんらの原因も理由もなく、偶然に動機を決定する随意という意味の自由である。他は自己の本然の性質に則《のっと》り、内心の最深の動機によりて必然的に動く内面的必然という意味の自由である。もし前者のごとき意味において自由を主張するならば、それは全く迷妄であるのみならず、かかる場合にはわれらはその行為に対して自由の感情を意識せずしてかえって強迫を感ずるのである。われらの有する自由は後者のごとく内面的必然の自由である。内面的に束縛せらるることによりて、外面の事由より自由を獲得するのである。自己に忠実であり、自己の個性に対して必然であり、おのれみずからの法則に服従することによりて自由を得るのである。しかしここに大きな問題が頭を擡《もた》げてくる。もし自己の内面的性質に従って動くのが自由であるならば、万物みな自己の性質に従って動かぬものはない。水の流るるも、火の燃ゆるもみな自己の内面の性質に従うのである。しかるにわれらは何ゆえに自然現象をば盲目的必然の法則に束縛せられているというのであるか。氏のいわゆる必然的自由は Mechanism と危くも顔を見合わせているといわねばならない。しかしながら内面的必然と器械的必然の間には鮮やかな一線が横たわっている。その人類の隷属と自由との境を画する月にきらめく銀流のような一線は何であるか。それは認識である。生命の自己認識の努力である。じつに西田氏ほど認識を神秘化した哲学者はあるまい。認識は氏の哲学のアルファでありまたオメガである。氏によれば認識の性質のなかに自由の観念が含蓄されている。自然現象においてはある一定の事情よりは、ある一定の現象を生ずるのであってその間に毫釐《ごうり》も他の可能性を許さない。全く盲目的必然の因果関係によりて生ずるのである。しかるに「知る」ということには他の可能性が含まれている。歩むことを知るというには歩まずとも済むという可能性が含まれている。われらの行為がたとい必然の法則によりて生ずるともわれらはみずからそれを知るがゆえに自由なのである。われらは他より束縛せられ、圧抑せらるるとも、みずからそのやみがたき事情を知るときにはその束縛、圧抑を脱して安らかな心を持することができる。天命の免れがたきを知り、自己のなすべき最善のことをなして毒盃を含んで自殺したるソクラテスの心境はアゼンス人の抑圧を超越して悠々として自由である。氏はパスカルの語を引いて、「人は葦《あし》のごとく弱し。されど人は考うる葦なり。全世界が彼を滅ぼさんとするとも、彼は死することを自知するがゆえに、殺す者よりもとうとし」といっている。われらはここにおいて認識なるものに対して驚異の目を見張らざるを得ない。認識能力が人間の無上の天稟であり、めでたき宝であることを思い、認識が人生において占有す
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