であろう。恋の本質はかかる憧憬,願い、祈祷のなかにあって、けっして性欲のなかにはない。私はまだ肉交の経験なき純潔なる青年が、漫然たる霊肉一致の思想に甘やかされてその純潔を失うことをかぎりなく遺憾に思うものである。一度失った純潔はもはやけっして返らないからである。純潔な青年と、すでに女を知った青年とでは女に対する感じがまるで違う。いな、すでに肉交を経験したる者は真の意味ではもはや青年と称すべきものではない。青春《ユーゲント》の幸福はすでにその人を去っているからである。私はいまだ童貞なる青年が、肉交を、思想上においてジャスチファイするのを愚かだとは思わない。むしろ純潔なる青年が、その何ものをも純《きよ》く見る善き素質から、かえって肉交を肯定しやすいからである。しかしすでに肉交に馴れたる男子が、肉交を善しと見、そを童貞なる青年に説くがごときは私は恥知らずとなすものである。すでに肉交を経験しながら、なおその醜さを感じられない人は無神経である(もし真にインノセントな意識で肉交できる人があれば、私はその人を礼拝してもいい。その人は悪の種を生命のなかに蒔かれていない、清い清い人だから。ブレークやホイットマンのごとき人はそれに近い)。彼らはおそらくみずから欺いているのである。すでに肉交を経験したる青年が、処女に対して、平気で恋をしかけるならば、その人は厚顔である。私はかかる人が真実な恋をなし得るとは信じない。私はあのアンドレーエフの『霧』のなかの青年のことを思い出す。自分を「汚ない、汚ない!」といって、ついに恋をも打ち明けずに死んだ不幸な青年のことを。私はかかる青年を尊敬する。そして自分はさまざまの恥ずべき病に罹《かか》りながら、妻を選ぶときには、さもさも当然のごとくに、その処女であることを要求するがごとき男子を破廉恥となすものである。いまだ純潔なる青年は、できるだけ永く、もしでき得れば一生涯その純潔を保つことを努力すべきである。そして不幸にしてすでに純潔を失いたる青年は、そのことを常に恥ずべきである。常にその償いに用意したる心をもって女に対すべきである。私はかかる青年もまた真実なる恋をなし得るを信ずる。私はむしろかかる青年を今の世では普通の青年と思い、いまだ童貞である青年をば特別に天の使に守られた、恵まれたる青年と思っているほどである。すでに汚れたる青年は、もしすでに汚れたる女と恋に落ちるならば、まことにふさわしき運命というべきである。かかる場合にも真実なる恋は成り得る。かかる青年が処女と相恋するならば、そはまことに傷《いた》ましい、むしろ恐ろしい運命である。しかしかかる場合にも真実なる恋は成り得る。しかし私はこの二つの場合とも、宗教を持ちきたらずしては、調和する意識に達することができない。ここで私は「地上の男女」ということを考えずにはいられなくなる。すなわち神の前に罪にさだめられたる男女を並べて立たせる――跪《ひざまず》かせることを! 厳密にいえば、いかに純潔なる男女も、すでに物心のつきたる以上は、心のうちに醜き死骸の堆積を持っているのである。「おお神様。私たちは汚れています。許してください。これからも汚れそうです。守ってください。身を清く保ち得るように力を与えてください」と祈る心持ちでのみ、恋する立場を与えらるるのである。恋の本質はけっして性欲ではない。しかし人間の恋には必ず性欲が混じて働く。そは何ゆえであるか。私には解らない。おそらく光には必ず影を伴わせ、善には必ず悪を絡《から》ませ、天の使の来たるところには必ずまた悪魔をもともに来たらしむる造物主の特殊な技巧であろう。しかし善と悪とはあくまでも峻《けわ》しく対立せしめられなくてはならない。ただ造物主の知恵の内においてのみその対立は包摂せられる。われらはけっして悪をみずからに許してはならない。たとい恋に性欲が伴うことはやむをえないことであっても、性欲を善しと見てはならない。いわゆる白道は善悪の区別を消すのではなく、越えるのである。その道に立って眺むれば、善悪の相はかえってますますはっきり[#「はっきり」に傍点]と見えるに違いない。その意味において私はあくまでも善悪の二業を気にかけて[#「気にかけて」に傍点]生きたい。しからざれば浄土がわれらの心の内に啓《ひら》けてこないからである。われらはできるかぎりの清さを現実に少しも頓着せずして、想像力のおよぶかぎり描かねばならぬ。それが地上において実現できるかいなかにかかわらず、かかる想像の像《イメージ》をわれらの理想としなくてはならぬ。その理想は絶対的に寸毫といえども低められてはならない。しこうして現実は少しの仮借《かしゃく》もなく、あるがままに認められねばならぬ。かくて天と地とを峻別し、しかる後にこそ初めて、天に昇る道は工夫せらるべきである。そこに宗教の微妙な問題が始まるのである。性欲はいかに避くべからざる生理的要求であってもあくまでも悪しきものである。恋するものは、その恋を尊ぶほどこの悪しき要求を斥くべきである。ある人はいうであろう。かく性欲を無視してはわれらの恋愛の要求は飽和することができないと。しかし私は性欲とは全然質を異にせる性のねがいがあるのではないかと思う。生物学的の根拠より発せずして前にも述べしごとく、「神初め人を男と女とに造りたまい」しゆえに生ずる、人間の型の完成の要求より発する性のねがいがあるのではあるまいか。しこうして恋の中の涙と感謝とはおそらくこのねがいから生ずるのではあるまいか。性欲から涙と感謝とが生ずるとは信ぜられない(肉交を経験するまでは私はそれを信じていたが)。われらの魂が深く清められ、天使的願望にみたされてゆくに従って、性欲はしだいに魂から退き体の交わりはなくとも、性の要求の飽和が感じられるようになってゆくことはあり得ぬことではなかろう。(私はあの古風なキリスト教の聖別《きよめ》という宗教的経験を注意せざるを得ない)。創世記《そうせいき》によるもアダムとイブは楽園にいる間は体の交わりをしていない。キリストも「天国にあるものは娶《めと》らず、嫁がず」といっている。あるいは罰せられたるものの裔《すえ》なるわれらには絶対的の聖潔に達することは不可能かもしれない。しからばこの理想を追うものは常に性欲の誘惑と、その欠陥より生ずる飢えとに悩まさるるであろう。しかれども、その誘惑と戦いその飢えを忍び、常に祈りの気持ちの中に純潔を保たんことを努力するならば、これこそ善くなろうとする祈りに伴われたる尊き恋である。いな、ときとして肉の交わりに陥ろうとも、そを悪として神前に悔い、「貞潔を守らしめたまえ」と祈りつつ清き交わりの完成せんことを努力してゆくならば、悪魔より放たれざる被造物としては清い男女といわれ得ぬであろうか。私はこの意味においてのみ「夫婦」というものを地上に許したい。かくて生まれたる子はかぎりなく美しく、愛すべきものであるけれども、かかる善からぬ原因により生を享《う》けたるものなるがゆえにその素質のなかにすでに不幸と邪淫との種を植えられているのではあるまいか。(私は仏教の「種子不浄」という語を思い出す)。かくて地を嗣《つ》ぐものは永久に催されつつ善を祈り求めねばならないのではあるまいか。これは見かけのままにてはいかにしても不合理である。しかし天上の知恵者はそれを合理的と考え得るのであろう。かく考え得る根拠と自信とがあるのであろう。私たちが地上を去ったときその秘密が解るのではあるまいか。
 純潔なる青年よ、諸君はあるいは私の言説をきわめて空想的となすかもしれない。それは諸君があまりに女に対して現実的なる先輩を持ちすぎているからである。天なるものにつきての考察を等閑《なおざり》にする近代の文化に毒されているからである。もし中世の人ならば私の言説を最も普通のこととして聴いたかもしれない。諸君の先輩の多くの人々はおそらく「女」をただ性欲の対象としてのみ取り扱っているであろう。比較的真面目にして、恥を知れる人といえどもおそらくおのれは女に囚縛せられざる容易なる位置に立って、女の発散する美しき気分を享楽する態度をとっているのであろう。かかる種類の人が最も多い。そして最も不幸なるは、かかる人々のなかには、かつては一度美しき、聖なるものとして恋に憧憬し、烈しき幻滅を経験して、恋のついにイリュウジョンにすぎざることを知り、女に対して貴き精神内容を盛ることを断念し、ついにただその色香のみを享楽することの最も賢きにしかざるを説くに至りしものの多きことである。私はかく推移する道程には実感的な同情を禁じ得ない。諸君がその言説に動かさるるのはもっともといってもいい。実際かかる人々は目に涙して、自分の捧げた情熱のあまりに清かったことを惜しみ、払った犠牲のあまりに高価であったことを嘆ずるであろうから。彼らがもはや地上に「永遠の女性」を尋ぬることに倦むに至れる愁嘆は諸君を動かさずにはやまぬであろう。しかししかしそこに本道と外道とのきわどい分岐点がある。外道は「女」を透して輪廻に迷行し、本道は「女」を透して天界にせり[#「せり」に傍点]あげる。「永遠の女性」を地上に尋ぬるに倦みたる人は、すべからくそを天上に求むべきである。私はそこに恋と信との繋《つなが》りがあるような気がする。「永遠の女性」を求むる憧憬は人間の霊魂に稟在する善き願いである。その願いはついに地上では満たされないものなのかもしれない。しかしなぜそれゆえにこの願いを捨てねばならないのか? 何ゆえこの願いを墓場の向こうで成就させようと努めないのか。およそ人心に宿る願いはもしそれが善いものであるならばいかなる事障によってもあきらめてはならない。われらの生存に意味を与うるものはただそれらの願いのみである。それらの願いをあきらめてはもはやわれらの霊魂は死ぬのである。それらの願いをけっしてあきらめずに成就せんと欲するのが宗教的要求である。人々はあるいはいうであろう。「彼《か》の世」の実在を信ぜずしては、これらの願いを持ちつづけることはできないではないかと。しかし私はむしろその反対に考えずにはいられない。これらの願いはあきらめられてはならないものであるゆえに、もしそれがこの世において成就しないものならば、必ず「彼《か》の世」が実在するであろうと。かかる問題は「こころもち」の内的実感を離れては論議さるべきものではない。ただ私は人心の深き願いのうちに永遠性を実感するものである。その願いの死なざるものであることを信ずるものである。したがってその願いを大切に大切に守りつつ生きたい。恋は人心の最も深き願いの一つである。そして多くの尊い問題をその内より分泌する、重要なる生活材料である。しかもその意識のうちには、私の信ずるところでは、天に通ずる微妙なる架橋を含んでいる。ダンテの生涯はその最もよき手本である。私は純潔なる青年に、何よりもこの問題に対して重々しい感情を保たんことを勧めたい。女に対して早くよりずるく[#「ずるく」に傍点]なることを警《いまし》めたい。かの「青い花」を探し求めたハインリッヒのごとくに「永遠の女性」を地上くまなく、いな天上にまでも探し求めることをすすめたい。しこうして「いつまでも愛します」と誓わずに、「いつまでも愛せしめたまえ」と祈り、他人を傷つけずみずからを損わず、肉体の交わりなき聖《きよ》い聖い恋をしてもらいたい(このことにつきては、『出家とその弟子』の五幕二場の親鸞と唯円《ゆいえん》との対話に詳説したからここには省く)。一度純潔を失いたる青年は、そを惜しみ、恥じ、悔い、その償いに用意したる心をもって女に対すべきである。しこうして夫婦はできるかぎりの貞潔を保たんことを努力すべきである。もしそれいかにしても遊蕩の制し得られざるときは、せめてそのことを常に恥じつつなしたい。みずからを悪人と認め、そを神に謝しつつも、なお引きずられるように煩悩《ぼんのう》の林に遊ぶ人と、それを当然のことと思って淫蕩する人とは雲泥の差がある。それはじつに親鸞と、ただの遊冶郎《ゆうやろう》との差異である。
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