浄土に摂らるるものと、地獄に堕さるるものとの差異である。私はもしその人がみずから悪人と認めて、それを恥じていさえすれば、いかなる悪人をも責める気にはなれない。現に私はけっして清い人間ではなく(これは謙遜でもいや[#「いや」に傍点]味でもない)絶えず性欲との戦いを意識し、しかも常に不名誉な敗戦をつづけている。私はけっして人間の悪の根の抜きがたきことを知らないものではない。またその悪によってかえって人と人との結びつく呼吸をも解せざるものではない。しかし悪は悪としてどこまでも斥けたい。それをみずからに許したくない。自分を責め、鞭打ちたい。しこうしてその悪の根を抜き取る道を工夫したい。この世でできなければ、あの世でも。
人は私があまりに善悪にこだわり[#「こだわり」に傍点]すぎると思うかもしれない。しかしながら私の祈り求めてやまざる無礙《むげ》自由の白道に出づるためにはそれは欠くべからざる手続きなのである。私はすべてのものを肯定せんとする願いにみちている。すでに造られて存在しているものは、いかなるものといえども、それを否定せずして肯定するのが本道である。造り主に対する造られたるものの義務である。私はそれを熟知している。私は性欲をも肯定したい。しかしそれは性欲をそのままに善しと見る方法によってではなく、一度悪として厳しく斥け、しかる後その悪しきものにも存在の理由を許す宗教の摂取の道によってである。
[#地から2字上げ](一九一八・一・五)
[#ここから1字下げ、折り返して2字下げ]
付記。私はこの一篇を一つの優れた思索的論文を草することを意図してではなく、ある緊要な実際的なかつ遠く遂げらるるを要する目的をもって書いたのである。すなわち純潔なる青年を、かつて私が陥ったと思惟する過失――漫然たる霊肉一致の思想に甘やかされて自発的にその純潔を失うことから防ぎたいためである。その目的のために、私は精緻を欠ける思索にもかかわらず、急いでこれを書いた。なんとなれば純潔を失うことはたやすく、そして一度失った純潔は永久に還らざるがゆえに、たとい私の論旨が誤っているにしてもそのもたらす禍は私のこの一文が防ぎ得るかもしれない禍よりもはるかに小さいと信ずるからである。加うるに私は一高時代に「異性の内に自己を見いださんとする心」という一文においてその誤れる思想を主張したことを絶えず気にかけてきた。一度その取り消しをすることを私の義務と感ずる。私は人々が熟知しながら醜いことを明るみに持ち来たすことを好まない清い心から沈黙していることを愚かにあばいたのであろうか。もしそうだったら私は赤面する。しかし私はどうしてもそう思えないのでやむをえず不愉快を忍んで書いたのである。私はけっして醜いことをできるだけリザーヴして表現することの美しい徳であることを知らないものではない。醜いことはたといこれを否定的に語る場合といえども読者の心に悪の陰を翳すものである。清い人はきっとそれを好まぬに違いない。しかし上述のごとき目的をもって書く以上私はそれを避けることができなかったのである。私はもっと天的な感じのする文章のみが書きたい。その意味においてこの一文を草さなければならなかったことを私は一つの不幸と感じている。
[#ここで字下げ終わり]
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文壇への批難
批難といっては私の心持ちにしっくり[#「しっくり」に傍点]しない。私はいま調和を求むる願いにみちているから。しかしいま私は私の心の底にある一種の怒りの感じ(それを私はけっしていいものとして自分に許してはいないが)に処を与うるために、あえて批難としておこう。私の心はいま訪問者によって傷つけられて、淋しい。そしてかかる心なき対人態度を当然のこととして流行せしむるにいたった責を私は文壇に嫁《か》したい気がしている。それが動機となって私はこの文を書いている。私はいま熱が出ている。私はからだ具合が苦しいから大切なことをさっさ[#「さっさ」に傍点]と書く。短く、一生懸命に。第一に文士はもっと文壇を離れてものを書くべきである。考うべきである。その意向も、思索も、情熱も――何よりも大切な心の願いも、もはやけっして文壇という観念をはなれることはできなくなるとき文士は堕落している。「文壇的、あまりに文壇的」という気がする。私は文壇というものに食いついているような作家、ことに批評家を嫌うものである。いったい文壇というようなものは芸術となんら本質的関係のないものである。生産物と市場とのごとき関係さえも成立しないのである。作る人は売ることを目的とせず、いな、自分の書くものの発表に関する意識――文壇的成心から独立して、純粋な表出的衝動から製作すべきであるのはいうまでもない。それを発表しようと、しまいとそれは別事である。かくてつくり上げられたる作品はおのずから[#「おのずから」に傍点]他の共存者の心へと道を求むるのである。その間に何の文壇というような意識の插し入る隙間があろう。しかしこの頃は文壇というものを予想しなくては存在し得ないような文章が多い。批評家にはことにそれが多い。日本でも真面目な部類の批評家ほどその書くものは文壇的でない。文壇に食いついてるような批評家ほど軽薄な文章を書く。悪いことには地方の青年などはまず文壇という空気に触れる。その後に初めて芸術そのものに触れる。だから文壇的なものを書く人の名はすぐに現われる。そしてここに文士というものがつくられるわけになる。そして芸術そのものは、その芸術の原動たる作者の日々の体験は、深く隠れてしまうことになる。ここに著しい矛盾は、たとえば一人の真面目な暮らし方[#「暮らし方」に傍点]をしている作家があるとする。その人は心のある深い煩悶《はんもん》から作ができなかったとする。このときにはその人は他ののべつ[#「のべつ」に傍点]に作を発表している作家より、はるかに切な、深い生き方をしているのに、文壇的には何の勲《てがら》もなかったことになる。文壇は書いた人のことはいっても書かなかった人のことはいわないから。実際文壇というものがあるために、いかほど軽い空気が醸《かも》し出されるかしれない。それがいかほど芸術を毒し、何よりも大切な、生活そのものを浮き足にさすかしれないのである。だから「浮き足」というものと全然相いれない愛の問題、その愛の要求する、十字架を負うべき実行生活になると、文士は貧弱と虚偽とを露出する。いかに立派な文章が書いてあっても、不幸な人、貧しい人、病める人、心の傷ついてる人――すなわち真に愛を求めている人が読めばすぐにその虚偽であることが解《わか》る。空言であることが解る。本当に愛してはくれないのだということが解る。私はそんな文章をいくら読まされたろう。実際文壇的空気にはずいぶん嫌なところがある。自分が不幸な不幸な気持ちにしおたれた[#「しおたれた」に傍点]ようになっているとき、そんな文章を読むと一種の立腹さえも感ずる。みんな道草をくってるような気がする。浮き足になってるような気がする。もっと大切な、われわれに真に必要な問題にハンブルに実践的に立ち向こうて、しみじみした、無駄のない、よく胸に応える論議が聞きたい。じつに今の文士の生活ほど古えの聖人の道に遠いものがあろうか。その言葉多くして行少なき、その名に対して敏感なる、その怒りやすき、その嫉妬深き、その空言を好む、その自欺に巧みなる、その肉体的快楽に感じやすき、その利己的なる、これらの悪しき性質は、他の市民に比して、文士においてはるかにはなはだしいのである。もとよりこれらは近代の文化の含む悪徳として一般的なるものではある。しかし文士はこれらの悪徳の煽動者のごとき観を呈している。しこうして市民の恥じつつなす悪行をも、彼らは当然のことのごとくにこれをなすように見える。もし文壇というものが、いな文士の日常生活の心の持ち方が、今のごとき調子のものならば、私は文士という名に嫌悪を抱く。あたかも牧師という名に嫌悪を感ずるごとくに。しかも後者においては姑息《こそく》なるものに対するはがゆさ[#「はがゆさ」に傍点]であるが、前者においては|荒らす者《ツェルステイレル》に対する敵意である。私はけっしていま自分に予言者のごとき昂揚した情熱を意識しつつ書いているのではない。反対に不幸に打たれて、しかもそれに抵抗する気のきわめて少なくなっている忍受の心――できるかぎり何ものとも和らぎたいと願う心、むしろ一種の喪《も》の感じに近い心で書いている。文士はもっと心情《ゲムュート》が濡れねばならない。あえて静平に、落ちつかねばならないとはいわない。いらいらするときも、論争するときも、遊蕩するときも、姦淫するときでさえも心情が濡れていなくてはならない。私はけっして人間の悪より放るることの至難であることを知らないものではない。ただ、しかし悪さにも種類がある。心の貧しくない悪さ、ものの哀れを知らない悪さ、和らぎを求むる心の無い悪さ、ずうずうしく恥を知らない悪さ――すべて天国に遠い性質《たち》のよくない悪さ、かかる悪さから文壇は一日も早く清めらるべきである。私は文士が論争し、遊蕩し、姦淫したりとてただちにそれを非難する気はない(私はけっしてそれらを善しとは見ないが)。しかし論争し、遊蕩し、姦淫する仕方、その心持ち、に至ってはあくまでも神経質に気にかけざるを得ない。私は文壇で気持ちのいい論争をみたことはほとんどない。皮肉や悪罵や、無益な穴探しや、相手を理解せんとする意志のない空言にみち、はなはだしきはもはや論点の所在に対する感覚を全然欠いて、いかにして巧みに相手を辱しめんかを苦心せるごとき論争をみる。かかる何人が読んでも醜い印象を受ける論争を芸術の名によって公衆の前にして見せるのは何事か。しかもかくのごとき原稿で金を得るとは何事か。しかも大部分の論争はみな第三者を眼中に置いたる、いわば公衆にして見せることを意識したる論争である。論者はそれによって「甲はとうてい乙の敵ではない」というがごとき判断を公衆の頭脳に印象せんことを目的としたるごとき論争である。しこうして結果は、論争者の相互とも一種の敵意に近き怨恨を胸に結んで別れることになる。(この点については、文士のしばしば軽蔑しがちな学者の方がはるかに、公けなもの、真理のために論争する道を知っている)。議論によって相手を説服《パーシュエイド》するということすらほとんど不可能である。まして相手をして会得せしめようとする意志のない論争が無意義なのはいうまでもない。真に相手を説服するは愛と祈りと奉仕とによるほかは無いように思われる。西田天香氏などは英語ならパーシュエイドという言葉で現わすべき概念を、受け身に「相手にまかされる」というふうに表現している。そうなるまでにはいかに対手を説服せんとする意志が実践的に鍛練せられることを要したであろうか。氏はけっして論争しない。真に説服するには論争の無効であることを知るからである。氏はたとえば利己主義者に愛の真理であることを説服するためには、その人の思想には直接関係が無いけれども、必ずその人に要する雑用(たとえばその人が渇いていれば一杯の水を汲んで来てやる、履《くつ》の紐がとけていれば直してやるというようなこと)を奉仕してゆくことから始める。もしイズムのことなど論じ合えば、相手がただちに反撥し、その心が閉じるからである。しかし愛と祈りをもってする奉仕は対手の心を動かすからである。私は論争好きな文士に、ただちに西田氏の真似をせよとはいわない。しかし自分のやってることと、氏のやってることと比較してみるがいい。そして少しは恥じるがいいと思う。遊蕩するにしてもそれを恥じつつするがいい。他人の妻と恋することがやむをえないときがあるにしても、その夫の心の受ける傷、その子供たちの運命の損うことを、死を願うほどに悲しむべきである。『アンナ・カレニナ』でも私はアンナの夫の苦痛に深く同情せずにはいられない。当然のことのごとくに思ってはいけない。やむをえないことと、正しいこととは別事である。人間が殺生す
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