現が肉交にはならない。あるいはその肉体的表現としては抱擁して泣くかもしれない。あるいは互いに充実して沈黙するかもしれない。その他のいかなる表現をとることもあろう。しかし肉交にはならない。肉交は愛の要求からは起こらずに、他の全く異なる要求すなわち性欲から起こる。肉交はその要求の象徴である。愛とは何の本質的関係もない。肉交の要求が生ずるときは愛の弛んでいるときである。二人が真に愛しているときは感謝と涙とにはなるが肉交にはならない。そして肉交しているときは二人は少しも愛していない。肉交の頂点にあるときは二人は全くなんの関係もなく互いを忘れている。この状態は心と心との抱擁を証していると誤まられる。そこに根本的の錯誤がある。
第三、肉交のエクスタシイは愛のエクスタシイではない、肉交はけっして霊肉の法悦ではなく、キリスト教的にいわば肉のみの楽欲である。霊は与《あずか》っていない。そのエクスタシイは男女が互いに相手の運命を忘却して自己の興味に溺れたるときに起こる。相手の運命と自己の運命とが触れるのではなく対手《あいて》を「物」とし「財」として生じたるエクスタシイである。心と心との接触ではなく、心と物との接触である、その相は生物と生物との共食いの相と同じ系統に属している。しこうして肉交の最も嫌悪すべきは、この恐るべき相を愛の絶対境と混同しあるいはみずから欺くところにある。愛の絶対境は犠牲であって肉交ではない。肉交はエゴイズムの絶対境である。ある人はいうであろう、すべての肉交がそうではない、強姦や買春の場合はそうであっても、相愛の人の肉交は愛のエクスタシイであると。しかしたとい相愛の人といえども肉交するときはけっして相手を愛してはいない。以上の提言は相愛の人の肉交についてなしたのである。ここに二人のあいびきしたときの場景を想像してみよ。二人は純粋に愛している間は性欲は起こらない。涙と感謝とである。けれどもその愛の少し弛んだとき他の全く異なれる要求がはたらき始める。そのとき愛と性欲とが混じてはたらく。したがってその愛は不純になる。そしてしだいに性欲がプレドミネートするに従って愛は退く。そしてついに性欲が勝をしめる。そして肉交になる。そしてクライマックスになる。そのときは全く愛はない。相手の運命などを考えてはいない。自己の興味――いな自己も与らざる自然力の興味に溺れている。私は不愉快を忍んでもっと鋭くいおう。たとえば相手の愛人がからだ具合が悪いときにでも肉交の要求は起こるであろう。もし肉交の中途においてある愛人の生命に危険をおよぼすごときできごとが生じても、肉交は終わりまで達しなくてはなかなかたやすく止められぬであろう。そのように相手の運命を恐れない状態がはたして愛のエクスタシイであろうか。霊肉の法悦として賛美さるべきものであろうか。「あなたのためなら死にます」という愛の没我とどこに関係があろうか。
第四、肉交したために愛がインニッヒになるのは肉交の愛であることとは別事である。ある人はいうであろう。しかし肉交したる二人は肉交せざる以前よりインニッヒになるではないかと。しかしそれは必ずしもそうではない。肉交したためにかえってはなれる愛人もある。またインニッヒになったにせよ、それはあたかも互いに撲り合うた人間と人間とが、教会堂に並んで腰をかけて互いに触れあわない二人の人間よりも、インニッヒになるのと同じことである。肉交そのものは愛ではない、また肉交せねばインニッヒになられないことはない。もしも二人が運命と運命とを触れあわすならば、二人の醜いこと、苦しいこと、羞かしいことをも共生《ミットレーベン》するならば、肉交にかぎらずインニッヒになる。肉交すればインニッヒになるかもしれない。けれど、肉交そのものは愛の表現ではない。あるいは愛と性欲とをそのように切り離して考えることはできない、という人もあるであろう。けれど私はこの精神作用のなかに本質的な区別を感じわけることができると思う。私はいかなる場合にでも、夫婦の間でも、相愛の間でも肉交は絶対に悪であると信じている。「愛のない肉交はしたくない」この言葉はしばしば聞く。しかし愛があっても肉交してはいけないのである。これは因襲でも概念でもない。肉交そのものの経験より発する実感に根をおいての主張である。仏者が女人を禁じたのは肉交そのものが悪いからである。キリストがマタイ伝に「およそ女を見て色情を起こすものは心の内すでに姦淫したるなり」といったのはけっして道徳の理想として厳重すぎてはいない。キリストの思想を純粋に守れば性欲はいかなる場合にも悪だからである。ある人はそれでは子孫ができない、人類は絶滅するというかもしれない。しかしたとい人類が絶滅しても悪は悪である。あたかも他の生物を殺さなければ人類は絶滅するけれども、殺生は悪であるのと同じ理屈である。私は人生に二つの最大|害悪《ユーベル》があると思う。一つは肉交しなければ子供のできないことと、他の一つは殺生しなければ生きてゆけないことである。もし愛が善いものであるならばこの二つはどうしても罪悪である。愛を説く人は何人もこの説を容れねばなるまい。女に対して性欲を起こしているときには、その男の心は女を祝福していない、ゆえに罪である。およそ他の生命を祝すことは善で呪うことは悪である。女の運命に関心していない。そのときには愛していない。食おうとしているときの心に酷似している。その証拠には性欲を興奮させるものはすべて呪いを含む感情のみである。「この女は処女だ、私は初めて聖《きよ》らかなものを涜《けが》すのだ。しかも私は昨夜は他の女と寝たのに」。かく思うとき性欲は興奮する。「この女は美しい弄具だ。男に身を任せるために生まれてきたようにできている」。こう思うとき性欲が興奮する。「じたばたしてももう私のものだ」。強姦するものは女が抵抗するだけ性欲が興奮する。猫が鼠を食う前に弄ぶときの心と、男子が自分の犯す女を肉交する前にいろいろ悪戯する心とは酷似している。すべての征服の意識は性欲を興奮させる。私は蛇が蛙を食ってるところを見ると性欲が生ずる。はなはだしきに至りては新聞で日本がシナを威嚇してる記事を読むと性欲が興奮する。その間にはある必然的な関係がある。しばしば手淫する人は、できるだけ惨酷な肉交を頭に思い浮かべなくては、性欲の興奮を感じなくなるという。これに反して女の運命を畏《おそ》れているときの心には最も性欲が生じがたい、愛の純粋な喜悦のときは涙と感謝とがみちて、性欲は最も遠ざかっている。美しい感情には、それを証する感謝がなければならない、性欲には感謝が伴わない。体の交わりをした直後に抱き合って泣くこともある。けれどそれは性欲そのものの感謝ではない。純潔な男女がある異常な鋭い接触をしたために感動して泣くのである。肉交に慣れた男と女とがなんらの著しき感動もなく、いな快楽さえもなく、習慣的に肉交して、互いを辱しめたことも感ぜずに、なまけた、じだらくな心で寝入るありさまを想像してみよ。じつに忌わしき感じがする。何に馴れているのがいまわしいといっても肉交になれて、なんらのパッションもなく、できるだけ安価にしかしできるだけしつこくたのしもうとするときの心ほどいやなものはない。殺人と肉交とははなはだ酷似したる罪悪である。しかも肉交は殺人より、もっと質の悪い罪である。そして人間の魂は前者よりも後者においていっそうその品位を傷つけて堕落している。私はキリストが聖霊によりて、姙める処女マリアより生まれたという聖書の説話を誠にふさわしきことと思う(耶蘇を神の独り子とする福音記者の思想を純粋に守れば)。私は妻とともに伝道する牧師が、私は罪人であると告白することなしに純潔を説くときにはこそばゆいような気がしてならない。いやしくも愛を説く人はできるかぎり貞潔であることを努力すべきである。貞操という徳は二人以上の異性と肉交しないことのみではない。真の貞操は夫の所有物でなくして、神の所有物である。肉交そのものが罪悪なるがゆえに、貞潔は尊いのである。互いに恋する男女は肉交を避くべきである。そは自分らの恋を汚すものとして斥くべきである。かかる悪しき欲望が混じて働くこと自身がすでにおのれの恋の純でないことを証するものとして恥ずべきである。恋の本質はけっして性欲ではない。このことだけは私は確信している。しからば恋の本質は何であろうか。それに対しては私は他のすべての人性の深き願いについてと同じく、明瞭な答えをなし得ない。実際かかる問題は一生の問題である。いな、むしろ私の考えではそれはじつに「彼《か》の世」に亙る問題である。造り主の計画! それは地上と天国とを併せて見渡し得る知恵者の計画に属することである。われら地なるものはかかる問題についてはとうてい探り足であることを免れ得ない。しかし不断に探り求むべきである。死にいたるまで。われらの思索とは|地なるもの《ダス・イルディッヒ》を機縁として、|天なるもの《ダス・ヒムリッシェ》の知識に達することである。その思索の動因はわれらの魂の願いと憧憬であり、その思索の器官はそのわれらに稟在する先験的願求がわれらの体験を素材として醗酵せしむる想像力である。かかる想像力によってのみわれらは天なるものの俤《おもかげ》は髣髴《ほうふつ》することができる。かかる想像力が、恵みによって、照らされたるときこそ、かのヨハネやスエデンボルグのごとき宗教的天才の見たる黙示と称すべきものであろう。恋の本質は何か? そは深き深き問題である。いま私はその謎を解き得るとは思わない。ただ私の心に照らし出される、貧しい想像の形象を語るならば、私は恋は人間の原型を完成せんとする願いではあるまいかと思う。すなわち、造物主の胸の奥に人間の原型があって、地上の男女は各々それ自身では欠けたるものであり、その両性を渾融して、男性でもなく、女性でもなく、しかしけっして中性ではないところの一種の性を備えたる人間、すなわち原型としての人間(かかる人間が完全なる円相を備えたるものである)たらんと願うのではあるまいか。ある人々は全然性の差別を超越して、ただ人間としての人間になるように努力すべきであるというけれども、私はいま少しく深く考えたい。人間はすでに人間である以上、必ず男か女かである。その魂の本質まで性の差別がある。その差別は変ずることはできず、変じる必要はなく、また変じてはならないものである。その差別から性欲でない、性の願い――恋が生ずるのではあるまいか。「神初め人を男と女とに造りたまい」しゆえに生ずる恋がありはせぬか。万有の持っている差別相は一点一画といえども否定してはならない。かくするは造物主の意匠に侵入する冒涜だからである。恋のなかには一種の当為《ゾルレン》の意識がある。その意識は一種の道徳的意識といってもいい。私はかのダンテのベアトリチェに対する恋を思う。ダンテにとっては彼女はあらゆる徳の華であった。善の君であった。彼は恋のなかに善のイデアを見た。その恋は、天なるものの俤への憧憬と分かつことはできなかった。ミケランジェロのヴィクトリア・コロンナに対する恋のごとく、またあのペラダンの戯曲化したクララのフランシスに対する恋のごとく、純なる恋はわれらの「善くなろうとする祈り」と分かつことのできないものである。私はゲーテの「永遠の女性」といった心持ちを思う。またホウガッツァロの『聖者』のなかに描かれたる老牧師と少女との恋を思う。マグダラのマリアが耶蘇に対する心持ちを思う。またかの中世期に聖い、燃ゆるがごとき、けれど静かなる情熱となってあらわれた「聖母崇拝《マリエンクルスト》」の心持ちを思う。またかの観世音菩薩の男性のごとく、また女性のごとき円満にして美しき像を思い浮かべずにはいられない。かかる像に礼拝する心持ちと恋の本質をなせる心持ちとは酷似している。純なる恋の気持ちはじつに祈りの気持ちに近い。私のかかる思想はある人々にはおそらく愚かにまた空しく見えるであろう。しかし恋の涙と感謝とを体験したる人はたやすく肯くことができる
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