ストエフスキーの作のなかにさえその作を深く見せるもののなかには一種の皮肉の要素が混じているようにも見ゆる。けれど私は思う。それは確かにいいことではなかったと。漱石氏のごときも、その点は私は常に不満であった。聖書や『歎異鈔《たんにしょう》』のなかには皮肉の調子はどこにも見えない。仏の相のなかには不動明王のごとく憤怒の相があってもそれは義《ただ》しき Indignation として慈悲円満の相の中に包摂できるかもしれない。けれど皮肉のみは完成せる像の相として許されまじき相である。
四 純潔について
完全と調和とを求める純な理想家であって、しかも事物を認識する鋭いリアリスチックな目を持っている人々がある。それは祝すべきことであるに相違ない。われらに人生の勝れた歩み方を示してくれる恩人はかような人々である。しかしかかる種類の人々のしばしば陥る一つの外道がある。それは人間の生活に一つのプログラムをつくることである。思えらく「完全と調和とはたやすく達せられるものではない。それは老年期に属することである。人生のさまざまな経験を経てこれを一つの光景として眺め渡すことのできるときにのみ可能である。それまでは迷わねばならない。深い迷行の後にのみ遠い完全な安息はある。さまざまな罪を犯した後に救いと徳とが得られる。ゲーテの晩年を見よ、ストリンドベルヒやトルストイの老年期を見よ」と。この考え方は深い真理を含んでいることは争われない。しかしながら人間は必ずことごとくかかる経験を取るべしと規定するのは独断であるように思われる。私みずからは上述のごとき傾向の性格に属するものである。私はそのために他人が年若くして信仰の生活に入れるのを見るときにはどうしても虚偽であるとしか思えなかった。青年にして酒を飲まず、女を求めざるものは浅薄な人々としか思えなかった。身を清く保っている人々はことごとく偽善者に見えた。そして迷わねばならない、疑わねばならないといって彼らを攻撃しさえもした。私自身は迷わざるを得ず疑わざるを得なかったので、今でも私はそれを無理とは思わない。けれど他人がみな私のごとくでなければならないであろうか。私はこの頃はしか思えなくなりだした。ある特別に恵まれたる人、選ばれたる人、業の浅き人々は初めより調和した性格と清き徳とを持ち得るのではあるまいか。パウロも「神は頑《かたくな》にせんと欲するものを頑にし、順にせんと欲するものを順にす」といっている。あたかも「陶土師は陶土をもて、ある器は尊くある器は卑しく作るがごとくに」被造物としての人間にも品の高下があり得るのではあるまいか。私はある若き外国婦人のキリスト教信者を知っている。その人の信仰は私を感服させるに足る深い美しいものである。けれどその人は小さい娘のときから敬虔な両親に育てられてまことに清らかな単純な成長を遂げている。罪に汚れずに、涼しくほがらかに暮らしてきている。私はその婦人のことを思うときにその生涯を祝さずにはいられない。もっと汚れてくればよかったのにと思うことはできない。さながら特別に神様に選まれて天の使たちに守られて育ってきたかのようである。私はむしろその婦人が死に到るまで清らかに、調和した、罪に汚されぬ生涯を送ってくれるように祈りたい気がする。私の迷いや煩悩《ぼんのう》についても細かに理解してはくれないけれど、それとは独立にこの人の信仰から私は深い知恵を与えられることがしばしばあり、この人の世界観が私のよりもしばしばより深く、精確であることを感じさせられる。私にはそのようにはなれない。その人の歩みは私の手引きになるにはあまりに手掛りがない。しかし私はその人の生活をアドマイアする。聖フランシスの生涯とトルストイの生涯を比較して見よ。フランシスは苦しむこと少なくして、トルストイよりもはるかに徳と知恵とのなかに深入りしている。私はフランシスの生涯を読んでも私の手本にするにはあまりに突然に調和しているので呆るるばかりである。いかにして私は聖フランシスのごとくになろうか。心憎くなる。しかるにトルストイの生涯を見れば私みずからの姿をまざまざと見るような気がする。恩師という気がする。しかし私はフランシスとトルストイを比較すればフランシスの方がたしかに人間として完成していると思う。けっしてフランシスをそのために軽蔑することはできない。フランシスのごときはわれらよりは、品の違った、特別に恵まれた、業の浅き人である。もしスエデンボルグのいうがごとく、天国にも階級のあるものであるならば、フランシスはトルストイより上座に着くであろう。そしてトルストイはよろこんで席を譲るであろうと思われる(かようなことはみだりに想像すべきことではないが)。私はトルストイの型の人間である。私は迷い、苦しみ、罪に汚れて、成長してゆくほかはない。しかしフランシス型の人があれば私は尊敬する。私は平民その人は貴族(精神的)と思おう。社会に階級があるのが不服なのはその階級が Tugend の高下に従っていないからである。私は聖人に頭を下げるのは不服ではない。トルストイはトルストイ、フランシスはフランシス、それで神の前にチャンと調和しているのではあるまいか。私はトルストイ型の人に深く同情する。しかしフランシス型の人を軽蔑するのは本道ではないと思う。人生の罪にまみれた後でなければ深い信仰は得られないのは多くの人々にとって本当である。しかし罪にまみれることはうれしいことではない。まみれずにすめばこれにこしたことはない。そのような人は最も祝福された人間である。私はその人を心から祝すようになりたい。私はかような意味において仏者がたてた種々の戒律を生かしたい。もとより戒律は宗教の本質ではない。しかし戒相を帯び得る人は祝福された人(あるいは業の浅き人)である。肉食妻帯はけっして真宗信者の特色ではない。肉食妻帯しても救わるるであろう。しかしこの戒律を守り得る人は恵まれた人である。戒相を帯びたるがゆえに真宗信徒でないことはない。法然上人のいわゆる「一人にて念仏申さるる人」は「妻帯して念仏申さるる人」よりも業の浅き人である。「何事も宿縁まかせ」にてこれをしいて固執することはできないけれども、身を聖潔に保ち得ることは望ましきことである。身におのずから戒相の備わる人は真に尊い人である。かようなことは小さきことであると私は思いたくない。罪はいかに小さくとも恐ろしい。親鸞聖人はその貞潔のゆえに、きっと法然聖人を尊敬せられたであろうと思われる。蓮照坊《れんしょうぼう》は信心決定した後も、敦盛を殺したことを思い出すごとに、胸を打たれたに相違ない。殺生や姦淫を予想する肉食妻帯について、あまりに鈍感になることは真宗信徒の恥辱である。
[#地から2字上げ](一九一七、秋)
[#改ページ]
地上の男女
――純潔なる青年に贈る――
肉体的要求を、ただ肉体的要求なるがゆえに悪しと見る思想が斥《しりぞ》けられてから、近代の教養を受けたる人々は、官能の要求に多大の価値を認めてきた。しこうしてそれは正しき主張であった。けれども軽卒なる近代人は、近代の文化が一般にその上を迷いきたる外道に導かれて、多くの重要なる錯誤に陥ったように見ゆる。中につきても、私はその最も忌むべきものの一つとして、愛と肉交との問題を挙げずにはいられない。
男女が肉体の交わりをなすことは、日本の在来の習慣(あえて道徳とはいわない)ではなんらかの形式において社会的公認を得たる夫婦の間においてのみ正しとされた。近代人はまずこの思想を毀《こわ》した。私もこれに対してはなんらの異議も持たない。道徳は社会制度の規定より生ずるものではない。天の下、地の上に人間と人間とが交わるときに、われらの心の奥に内在する真理の声によって定まるのである。たとい夫婦の間に行なわるる肉交のみが正しとするも、(私はそれをも認めないが)そは夫婦なる社会上の規定にその根拠を持たずして、夫婦関係に特在するある事情がそれを許すのでなくてはならない。これに次いで来たるものは、恋愛が存在する男女間の肉交は正しとする思想である。この思想は新人の間に最も認めらるる思想であって、ここに私は主としてこの思想に対する私の疑点を述べたいのである。このほかになお一般に絶対に肉交を是認する思想がある。その唯一の理由は肉交は人間の自然に与えられたる生理的要求であるからであるというのである。しかし、それは道徳とは何の関係もない、単に事実である。存在の法則から価値の法則を導くことはできない。単に要求といわば、人間のすべての行為は形式上要求の充足である。いかなる行為も十分なる動機の充足律なくして生ずるものはない。けれど道徳はそれを善しと見あるいは悪しと見ることができる。ドイトリッヒにいわば、人間のあらゆる要求をばことごとく悪しと見ることも可能なのである。さて、愛があれば肉交をしても善いという思想はどこにあるのであろうか。それは愛を善しと見る、しこうして肉交は愛の必然的結果であるというのである。おもえらく、生命は第一に精神と身体との無関係の別個の両存在ではなく、この二者は一如である。一つの全体としての生命の二つの顕現である。肉体は精神の象徴である。一つの全体として生命を内観すれば精神であり、外より官能を透して知覚すれば身体である。ゆえに内にありて心と心との抱合は、外にありては肉と肉との抱合である。愛が最高潮に達せるとき、それを外より見れば肉交となる。すなわち相愛の男女の心と心との抱合を象徴するがごとき肉交は善いというのである。かつて私はこの思想を信じた。そして私は単に肉交を許さるべきものとして要求したのでもなく、また性欲に圧迫されて要求したのでもなく、じつに二人の恋を完全なるものとなすには肉交しなければならぬと信じて肉の交わりをせんとした。すなわち完全なる恋は生命と生命との抱合すなわち霊肉をもって霊肉と抱合せねば虚偽であると考えたからである。けれど私は今はこの思想を疑っている。そしてときどき私はそのときのことを考えて羞恥と後悔との念に打たれる。そして私はかかる立ち入った問題に触れるのは好まないけれど、今の多くの青年はおそらく私がかつて考えたごとくに恋と肉交との関係を考えていることと思い、そしてこの問題はことに痛ましき切実なる問題であると感じるゆえに、再考を乞いたいために、少なくともここに一人かつてはそれを信じ、今は疑うてる人間がいることを知らしめたいためにこの文章を書くのである。結論を先きに掲げれば、私は肉交は愛の必然的結果ではないと思う。いなむしろ肉交は愛と別物なるのみならず、愛の反対である。もし愛を善しと見るならば、肉交は悪しきものである。互いに愛する男女はけっして肉交してはならない! と私は思うのである。かく考うるに至れる心的過程を次に述べてみる。
第一、生命が精神と身体とに区別できないという説には私も肯《うなず》く。けれどこの唯物論と唯心論との調和は、キリスト教的の霊と肉との調和とは別事である。聖書の「霊」とベルグソンの『物質と記憶』の「精神」と、および聖書の「肉」と『物質と記憶』の「身体」とは異なる概念である。たとえば後者では意志は精神であっても、前者では霊でもあり、肉でもある。聖書の霊肉は精神作用の二種である。後者では性欲は精神であるが、キリスト教的には肉である。物心一如論はただ性欲と肉交との間には象徴的関係があることのみを主張する。けれどそれが善いとか悪いとかを主張するのではない。聖書に拠れば、性欲は悪い、ゆえにその象徴なる肉交も悪いのである。すなわち、キリストによれば性欲と肉交とは初めより終わりまで肉である。そのどこにも霊はない。
第二、肉交は愛の象徴ではない。肉交はなんらかの精神的要素の象徴であるに相違ない。しかし愛の象徴ではない。「内より見れば愛、外より見れば肉交」という関係は成立しない。私は肉交が性欲の象徴であることを認める。けれど、愛の象徴であることは認めない。換言すれば二人の愛が高潮したときには、その愛の肉体的表
前へ
次へ
全40ページ中31ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
倉田 百三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング