つけずしては至難の業である。愛はどうしても念仏に深まらねばならなくなる。私は祈りの心をしみじみと感じた。私たちは真に愛するならば、隠れて祈るよりほかに道はない。すでに働きかければ他人を損じるのである。ここになって私は初めて真の隠遁の根拠を見いだしたような気がした。「おまえさんみたような人らとは」というのでなく「私みたようなものは」と感じて退くのである。「求める気はありません」というのでなく「与えることができないのみか、傷つけますから」とて隠れるのである。隠れても他人の祝福を祈るのである。そこにはもはや高慢とエゴイズムとの影はない。私は昔から聖者たちの隠遁は、かかる種類の隠遁であって、私の前にしたごときエゴイスチッシュな退隠とは全く異なっていたのであろうと察せられる。ここまできて私は永くためろうていた。このような隠遁はその心持ちはしみじみと解るけれど、どうも私の素質のムードとしっくり[#「しっくり」に傍点]合わないのである。私の心の内に天与の人懐しさがある。他人と何ものかを分け持ちたき願いがある。他の生命と触れたい心がある。その願いはどうしても悪いものとは思えない。いな人間性の主要な部を成しているものである。その願いが外に道を求めることができなくては人間の生活の材料がなくなる。人間はみずから気がつかなくとも、じつは大部分愛で生きている。他人を内容として生きている。その接触がなくなれば死のごとき空虚が残るのみである。それでは生きている空がなくなる。私はいかにしても孤独というものは、究極のものとは思われない。もっと博いヒューメンな人間性の願いの許される生活が本道でなければなるまい。それに達しないのはどこかに思索に深まり方が足りないからであろうと思われた。とはいえ働きかけることは畏ろしいことである。私はその中間でうろうろしていた。そして魘《うな》されるような晦滞《かいたい》の感に責められていた。その間にも文化は日に混乱のなかに陥り、ことに道徳的な世界は紛糾を極めて、稀《まれ》なエゴイスチッシュな時代はますますその度を高めてゆく。モーラリッシュな素質あるものは、ものをいいたき心を挑《いど》まるるようなことのみ起こってゆく。今日は沈黙することのじつに苦しい時代である。じっと見ていると咽喉《のど》もとまで言葉がこみ上げてくるような気がする。ことに自分がさまざまの不幸に遭《あ》って心が濡《ぬ》れ輝いているときには、同胞に向かって呼びかけたくなるものである。しかし自分には同胞の運命を直くするほどの実力があるのではない。触《ふ》るるところのものを幸福にするだけの器量があるのでもない。しかし黙って祈ってのみいるには堪えられない。しからばどうすれば善《よ》いのであろうか。私は考え悶えた。自分のうちに円熟するまで働きかけるのを待つならば、いつまで待ってもそのような時期が来べしとは思われない。ついに「いまだ画かざる画家」となり、「いまだ説かざる説教者」として終わらなくてはならなくなりそうである。なんとなれば真理といい、力というものは一時にその絶頂に達し得られるものではなく、その内容を少しずつ体験しながら、しだいに aneignen してゆくものであるらしいからである。かくのごとくしてついに同胞とその苦しみや、喜びを分け持つことなしにみずからの切り離された生活のうちに蟄居《ちっきょ》するのが知恵ある生活であろうか。また祈りの心持ちのなかには深い実践的な気持ちが含まれている。祈りとはむしろ実行精神の最深なるものである。「愛児の病気のなおれかし」との祈り、よもすがら病児の枕頭に侍して、身も心も疲れた母の心に起こる切願である。黙祷に対して「体祷」というようなものが真の祈りである。また隠遁しても、絶対的に他人に荷を負わすことなしに生きることはできないのである。むしろ他人の喜捨のみで生きるのが真の聖人の生活であるらしく思われる。かく考えてくれば私はどうしてもここで地上の約束、モータルとしての人間のさだめ[#「さだめ」に傍点]に触れずにはいられない。すなわち互いに傷つけずには生きられないのである。宗教心とはこの恐るべきさだめの内にかえって造り主の愛を見いだす心をいうのであろう。そこで私は考えた。私は高い処にみずからを置いて説教しようと思うから、発言することができないのである。人々と与《とも》に歩め。与《とも》に真理を研《きわ》め、与《とも》に徳を積め。「共存者よ、私はかく感ずる。御身はいかに考えるか。善いところがあれば用いてくれ。誤ってるところは教えてくれ。私を愛してくれ。私は御身を祝する」とこういう態度で話しかけたらどうであろう。それでも他人を傷つけないと保証することはもとよりできない。おそらく傷つけもするであろう。そして自分も傷つけられもするであろう。しかし絶対的に他人を傷つけないということができないとすれば(できねばならぬはずだが、人間はその方法を知らないように見ゆる)その傷害を同胞の愛をもって互いに赦し合うたらどうであろう。それでも互いに働きかけないよりかはるかに人心の願いに適うのではあるまいか。「われらに罪を犯すものをわれらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」と耶蘇が弟子たちに「かく祈るべし」と教えられたのもそのこころではあるまいか。私は教会で人々と共にこの祈りを口に唱えるとき、いつも涙がこぼれる。一人で祈るときにはそうでもないが、人々と共に祈ると涙がこぼれる。平生は互いに罵《ののし》り合い、傷つけ合うている人間同士が、日曜に一度神の前に出て互いに赦しを乞うているのだと思うと、私はなんともいえない感動をおぼゆる。そして祈りは密室の黙祷でなくてはならぬとよくいうけれども、ピープルとともに祈るのは別な深い意味があって、そこに教会の存在する根拠がありはせぬかと思うほどである。私らは与《とも》に生きているのである。共存の意識は個存の意識より浅いものではない。みずからを一段高く置く態度はとうてい相対的のものである。「あなたはそれで私を傷つけませんか」と小さきものに念を押されたときなんといって答えようぞ。かの耶蘇の生涯といえども、その疑いから免れることはできない。耶蘇はおそらく旧約を読み、また永きユダヤの伝説から、自分をキリストである、すなわち人間とは本来|品《ひん》を異にせる神の独り子なる贖主《あがないぬし》と信じたのであろう。彼の高き権威はそこから出ているのである。パウロの権威と耶蘇の権威とは程度の相違でなくして、品の差異である。私は耶蘇の特殊の伝説的地位でなくして、耶蘇のごとき権威をもってものをいうのは間違いであると思う。パウロの権威は私に理解できる。しかし耶蘇の権威はいまの私には不思議というほかはない。神と被造物との間には絶対的の区別がある。聖者は神でなく被造物の最大なるものである。それは人間性の超越ではなくして完成である。そこにはまだモータルとしての制限は残ってもよいのである。私らが被造物としての境を守るならば、「兄弟よ、私も間違うけれども赦してくれ」という態度をとらねばならぬ。その方が合理的であるのみならず、良心の前に安らかである。私はその態度になって初めて他人に話しかけ、働きかけることが、みずからに許される心地がする。かくて後たとい互いに過ちをつくろうとも、祈りと赦しとによってその過失からかえって互いに結び付け、富ますこともできるのである。私はこの後他人に働きかけたいときにはかく思おうとおもう。「私は今この人を傷つけるかもしれない。しかしいま傷つけないからといって、それで私はいつも傷つけないというのではないのだから、できるかぎり気をつけて働きかけさして貰おう。神様私が誤りませぬように守ってください。兄弟よ、許してくれ」と。みずからを高しと置くも、兄弟と置くも、実力だけのことしかできず、また実力だけのことはできるのである。しかし兄弟と置かなくては uneasy である。今の私の器量ではこの祈りの心と赦しを求める心とに支えられて、他人に働きかけるよりほかに知恵を持たないのである。もっと深い態度があらば、私は切に教えてほしい。
 私はかような態度でこれから私の心の内に積っている感情や、願いや訴えを同胞に話しかけたいのである。私はそれらのものを共存者と公有していることを信じる。なんとなれば私の悩みや願いはもはや私のものとしてそれらであるというよりも、人間としての公けなるものばかりだからだ。その点において永遠性と普遍性を帯びて万人の心に触れるはずである。たとえば「何ゆえにこの世にはさまざまな禍悪《ユーベル》があるのであろうか」というような悩みは私の私有であろうか? 私は、私としてでなく、人間として、公けに悩んでいるのである。私らはかく悩むときに、その悩みを同胞と分け持ちつつあることを信じることができる。そして深い共存の感じがする。私はさまざまの不幸のなかに涙して生きている。人生の永い悲哀に触れて心は濡れて輝いている。一人の人間がいかに忍耐して、強くまともに生きているかは他の人間の力となり、慰めとなる。私はしみじみと語りたい。安否を兄弟にたずねたい。みんなみんなしあわせに暮らしてくださいという気がする。
[#地から2字上げ](一九一六・一一)
[#改ページ]

 本道と外道

 人間の精神生活の目的は成仏する(昇天する)ことである。かく願うことはわれらの現実の弱小《じゃくしょう》醜穢《しゅうわい》なる心的状態を省みるとき、あまりに誇大なるごとく見ゆるけれども、私は願いはいかに大きくても大きすぎることはないと思う。願いそのものさえ純粋であるならば、いかにみずからは小さく卑しくとも願いを立てることは傲慢ではないと思う。いかなる人もいと高く遠きところに向かって願いを立てねばならない。けれど願いは大きいだけ畏《おそ》ろしい。法蔵比丘《ほうぞうびく》の超世の願いは思えば想うほど畏ろしい。その願いを遂げるための水火の中での数えきれないほどのあの苦行を思うときに。今や善き人の仰せを承《うけたまわ》って十字架を負わずしてこの大願を成就する不思議なる道を示されたとはいえ、われらが真にその道の上に立ちその道を安定して歩むことを得るに至るまでには、われらの前に横たわってわれらの歩を阻む蹉《つまず》きの石が多いことを感ずる。それらの石は外部の誘惑においてよりもわれらの内面、われらの思索、その思索を動かすわれらの|考え方《デンケンスワイゼ》そのものの中に置かれたるものが最も危険である。それらのあるものはわれらの注視によってのみはじめてその所在を発見し得るほどに見いだしがたく潜んでいる。すなわちわれらの思索を彼岸に通ずる本道より誘うて、まことしやかにそれを輪廻《りんね》に「迷行する外道《げどう》に」導くものがある。いま私は私自身の内面を検査してそれらの外道を発見し、わが道を直くし、わが歩を健《すこ》やかにすることを企てたいと思う。

     一 調和の信仰について

 私らは世界に生きている。そして生きているがゆえに、ただそれのみでわれらの生は善きものである。世界は調和したものでなければならぬと信じなければならない。われらは心を空しゅうしてわれらの生命を内観し、この世界の真景を熟視しなければならない。そのとき正直に、一毫《いちごう》も回避せず、悪は悪として見ることを恐れてはいけない。世界はいかに悪と不調和とに満ちていることよ。何人もそれを認めないことはできない。しかしながらこのとき生命を厭い、世界を呪うは外道である。本道はこの見ゆるところの悪と不調和との奥に、善と調和とを求むるところにある。堪えがたき悲哀と無常とのなかにあって、しかも生を呪わないところにある。多くの厭世観はそれが厭世観であるゆえのみに誤れるものといってよい。そのためには私は世界をこの現われたる世界のみに限ることができなくなってもいい。死後の生命を立てなければならなくなってもいい(実際にオーソドックスの宗教はそれをなしている)。われらの生命がよく、世界は調和したものであることを信ずるまではわれらの思索は停止
前へ 次へ
全40ページ中29ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
倉田 百三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング