けている。それは償われなければならない。私は恕《ゆる》してくれよといいたい。しかし地上の禍悪はおもに人間の過失から生ずるのである。いったんの過失が永い悲哀を遺《のこ》すのである。人間はやはりみな本来は神の子であるらしい。がただ悪魔に魅入られている。みずから企《たくら》んで他人を傷つけるような悪人はそういるものではない。しかし地上の約束を知らない無知を悪魔に乗ぜられるのである。そして自他の運命を傷つけるのである。善良な人間の犯す罪はほとんど過失といってもよい。過失だからとて責任を免れることはできない。現に自分の前に自分のために傷ついた人がいるとき過失だからとてみずからを責めずにいられようか? あわれな子守が愛している幼児を負うて溝に転んだ。子供は片輪になった。大きくなってもお嫁にもゆかれない。その報いはいつまでも続く。たといその児は恕《ゆる》してくれても、子守の心は一生傷つくであろう。それに恐ろしいことには一人の運命が狂い出すと、その周囲の人々の運命が共に狂い出す。罪は罪を孕《はら》み、不幸は不幸の因となる。私は仏教の「業」という思想を深いものと思う。私らの不幸なのも、祖先が積み重ねた罪や過失の報いが深い因を成している。アダムとイブの過失から人類の運命が狂い出したという聖書の原罪の思想には深いグルンドがある。私たちは過失を恐れなくてはならない。けれども最も恐ろしいのはその過失がみずから気のつかぬような深所に、しかも道徳的な仮面を被って、自分の反省の届かない域に潜んでいるときである。それを見いだすのは知恵の深さに待たねばならない。聖人とはかかる知恵の深い人のことであろう。昔から悪魔が聖者を試みたときにはかかる一見道徳的に狡《ずる》い方法を用いているのでもわかる。私らはみずから気のつかぬのみか、善と信じてしたことが、知恵の足りないために、かえって他人を傷つける結果となることが多い。かかる過失は心の純なイデアリストがかえってしばしば犯すものである。そして最も深い過失である。私らは何ゆえにかく過失にみちているのであろうか? この問題を考え詰めるとき、深い問題の場合にはいつでもそうであるごとく、ここでも私らは永遠な、宗教的意識のなかには入り込む。思うに私らはナイーブなままでは善くあることはできないらしい。私らの享《う》けたる「生」のなかには、すでに「善」の芽と「悪」の芽とが混じて生えているからだ。私らはそれを感別する知恵で|明るく《エンライテン》せられなくてはならない。そしてその知恵に目醒めるまでには、人間は多くの苦い杯を呑むさだめ[#「さだめ」に傍点]となっているように見える。なぜ私らの生命のなかには二つの相そむく要素があるか? これはじつに恐ろしいことである。その理由は私には解《わか》らない。おそらく造り主の知恵であろう。ほむべき造り主はそのなかにかえって深い愛を蔵していられるかもしれない。私らは純な、人間らしい願いを振りかざして事実に向かうときに、その願いに対抗して働く力にぶつかってその願いが崩れる。成就しなければならないはずの願いが裏切られる。「すべてのものを失うことによって人は象徴を信ずるようになる」とアンドレーエフは言った。一心こめたる願いが滅ぶときに人間は運命を知るのである。モータルとしての運命を。あの親鸞聖人のように。その後は「善」と「悪」との問題はつまり運命と知恵との問題となる。本能の愛から脱した慈悲心が初めて出発する。人間は涙に濡れた顔を回らして初めてまともに天に向くのだ。
私自身について語れば、私は淋しい恋をした。それは純な、一すじな、かつ公けなものであった。けれども私は裏切られた。そして深い心の傷と癒えざる病とが私に残された。そのとき私は人生の寒冷をしみじみと感じた。そして他人に依嘱した生活の脆《もろ》さと、求むる心のはかなさとを知った。私はもはや他人の愛は求めまい。私自身のなかに独立自全な生活を建てようと企てた。私のこれまでの生活の破産の原因は他人に求めかつ働きかけた点にある。ゆえに私は他人との接触を断って私自身のなかに閉じ籠《こも》らねばならぬと考えた。この心持ちのなかには人間に対する反抗心とミスアンスロフィックな感情が含まれていた。そのとき私を惹きつけたのは中世紀風な、隠遁《いんとん》的情趣であった。淋しい海べの旅館や、沼のほとりの離れ家に、人を避けて静かに、書物を読みほとんど賑《にぎ》やかな人里へは出なかった。私はたまたま街に出ても行き遇う人はみな卑しく、恐ろしく感じられた。「あの品の好い紳士は、あれで心は残酷で、吝《けち》くさいのだろう。あの百姓は単純そうに見えて、本当に嫌にしつこくて貪欲《どんよく》なのだろう。あの娘は美しいけれど、あれでいざとなれば恋人を捨てるんだろう。あの奥様は淑《しと》やかに見えるが、あれで娼婦のような性質が隠れているのだろう。私はおまえさんたちに愛を求めるほど弱くはない」私はこのようなふうに考えた。そして急いで隠れ家に帰った。水辺に蘆《あし》など生えていた。夜となれば燈火をかかげて、トマス・ア・ケンピスや、アウグスチヌスなどを読んだ。Don't trust to man, but believe in God, と聖書には録されてあった。「汝ら心の貞操を保たんとならば人を避けて、静かなる処に隠れよ、けっして出づるなかれ。汝もし外に出で、人と語りて帰るとき、必ず汝らの心荒らされて『汚れ』たるを見いださん」とトマス・ア・ケンピスは教えていた。O, Gott, du liebest ohne Leidenschaft! とアウグスチヌスは祈っていた。ときどき夕ぐれなど人懐しい心に惹かれて街の方に足の向くときには私は自分を叱った。「おまえは何を求めに街に行くのか。人の愛か、女のなさけか? おまえはそれを求めて失敗したばかりなのに」。そして私は心を堅くして refuge に引き返し引き返した。
けれど、かような生活は、博いまともな道を歩きたいという私の本来の願いと相容れるものではなかった。かような隠遁生活には反抗心のつくる無理がある。公けな心はその無理を発見する。そしてもっと素直な道を求めずにはおかない。私の心の内には素質としての人懐しさがある。その願いは外に出道を求めずにはおかなかった。私は反抗心の和らぐとともに、独りの生活に寂しさを感じだした。私は遠くの友には、かえって前よりしばしば手紙を送った。ことに女の友には、「私はもはや女の愛を求めようとは思いません」と書かねば気が済まなかった。けれどかく書き送る心の底には微妙な訴えのこころが含まれていた。そのときこの人懐しさのほかにもっと強く正面から私の退隠生活を破る原因となったのはドストエフスキーと聖フランシスとであった。ドストエフスキーはシベリアの牢獄で荒々しい、残忍な、しつこい人々の間に交わりつつ、いかにそれを耐え忍んで愛したであろうか。ことに感動すべきは彼らから排斥せられたときに、みずからを高くし、軽蔑の心から孤独を守らずに、心からそれを辛きことに思ったことである。それを辛く思えたのはドストエフスキーの博さと謙《へりくだ》りとである。またフランシスは隠遁して神との交わりにもっぱらになろうとの願いが高まったときに、それは悪魔の誘惑として、その願いに打ち克つように祈ったというではないか。私は退隠するのは強いことと思って、市に出たい、自分の心を叱ったのに、フランシスは退隠するのは弱いこととして、山に隠れたき心を鞭打っている。そこに私の心のエゴイズムが日に晒《さら》さるるごとくに露《あら》われているではないか。ドストエフスキーのような場合には、愛を求むる心はけっして弱いとはいえなくなる。またたとえ愛を求むる心は弱くとも、愛を求めずに与うる心で市に出でるのはもっと強いことである。愛が強くなればそうせずにはいられぬはずである。私は高慢で、エゴイスチッシュであった。私はどのような嫌な冷淡なしつこい人間とでも忍耐して交わらなくてはならない。
私は退隠生活をやめようと決心した。その頃私はまた病気が悪くなって、旅の病院に入らねばならなくなった。そこで私は手術の苦痛を怺《こら》えつつ、長い月日を送らねばならなかった。私はその頃の私の生活を、めで慈しみつつ思い返さずにはいられない。心はかなしみと忍耐に濡れて、親しい静けさを守っていた。「ドストエフスキーのように」というのが、その頃の私の生活のモットーであった。そこで私は触れ得るかぎりの人と触れ、彼らをことごとく隣人の愛で包もうと努めた。他人の争いの仲裁者となったり、病める青年を慰めたり、新聞売りの老婆や、飯焚《めした》きの小娘や、犬やをも労《いた》わり愛した。また卑しい仕方に私を弄《もてあそ》ぼうとした一人の少女にも、少しの怒りをも漏らさずに、かえって彼女に赦しの徳を説くこともできた。私の生活は、ここで、まれな静けさと、調和とを獲《え》て落ちつくように見えた。そしてみずからも天の甘美と、遠い平和とに与《あずか》るような心地がした。けれどもそれは、たまたま運命に許されての、偶然な恵みにすぎなかった。運命に毀《こぼ》たれぬ確かな平和はまだその影をも私に示しているのではなかった。病院生活の終わり頃に、私はまた一つのできごとに試みられて私の生活法を代えねばならなくなった。私は一人の社会的に身分の低い女に恋された。私は牧師や、伯母の注意があったにもかかわらず、キリストがサマリアの女と井戸端で語った例などを思い、どのような人でも愛を求めてくるものを斥《しりぞ》けてはならないとて、この女とも公けに交わった。私はこの女をもナハバーリンとして交わる気であった。けれどもさまざまの紛糾の末に、その結果は女の心に悩みの種を蒔《ま》き、みずからの心の平和を乱し、周囲の人々に煩わしさと混雑とを被らせることに終わった。このできごとは私に深い反省を与えた。私は自分の理想と器量との間に考察がなければならないことに初めて気がついた。「いかなる人々をも愛して交われ」という教えは正しい。この教えを生かすのは耶蘇の器量である。しかし器量の小なるものはこの教えを生かすことはできない。サマリアの淫婦に話しかけた耶蘇には、彼女を説服して神の国の民となす力があった。しかし私は一人の婦人の運命を傷つけたのである。私はそのときから自分の力がひどく気になりだした。ある人と接触する前に、その人を幸福にし得る、少なくも傷つけないとの自信がなくてはならない。その自信なくして他人に働きかけるのは、たとい与うるの愛に燃えているとも、運命を畏れざる軽卒である。おそらく何人といえども、この反省の自分の行為の前に横たえる溝渠《こうきょ》を越えることは容易ではあるまい。私の足はぴったりと止まった。私には自信がない、一人の人間、一羽の小鳥でも、触れて傷つけないとの自信はない。「一人の小さきものを蹉《つまず》かすよりは、石臼《いしうす》を頸《くび》に懸けて、海に沈めらるる方むしろ安かるべし」と聖書には録されてある。私は苦しくなった。私は愛すことと、その愛を働きかけることとの間に峻しい障害を感じだした。私はある人が「あなたは善い人間だが、ただちに人の懐《ふところ》の内に飛び込んで中を見ようとするから、本能的に心の扉を閉じたくなる」といったのを思い出した。またある女が「他人がアクセプトしないのに愛したがるからいけない」といったのを思い出した。私はますます解らなくなった。私は考え出すとほとんど手も足も出ないほど不自由を極《きわ》めてくるのを感じた。そのとき私は親鸞聖人の心持ちがしみじみと仰がれる心地がした。聖道の慈悲では「心のままに助けとぐることありがたき」ゆえに「この慈悲|始終《しじゅう》なし」と見て取って「いそぎ仏となりて心のままに助けとぐるべし」と浄土の慈悲に入られたのである。「念仏申すこそ誠《まこと》に末通りたる慈悲にてや候ふべき」というのはじつに深い心持ちである。心の内で愛すことはできても(それもおぼつかないのであるが)その愛を働きかけることは、他人の運命を傷
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