りましょう。一つは自分の発情を慎むこと。も一つはみずからをわざと殺さぬこと。神様の私たちの心のなかに生まれしめたまいし若芽をわれとわが手で摘み取らぬこと。私はそれを侵しかけているのでした。それからもう一度だけあなたに明らかにしておかねばならないことがあります。それはあなたと私との間に恋が生まれるのは、神様の聖旨であるかどうかはまだたしかでありませんということです。しかしもしや神様があなたと、私とを繋《つな》いでくださるのだったらどうでしょう。それを思うとけっして別れる気にはなりません。ではどうしたらいいのでしょう。私の考えではあなたと私とはやはりこれまでどおりに交わりをつづけてゆくべきでしょう。そして前にいった二つの意味で神様を畏れつつ運命の赴くところに任せてゆきましょう。何よりも発情に溺れずに、けれどけっしていたずらに自分に背かずに。もし聖旨ならば二人の運命はしだいに切迫してゆくでしょう。そしてその内面的の必然性が神の聖旨を証するほど熱してきたときに私たちは喜んで結婚しましょう。もし聖旨でないならば二人の交わりはそれとは違った性質のものになるでしょう。そしてほんとの善いお友達になれるかもしれません。先きのことはなかなか解るものではありません。あなたは私のいうことを心細く頼りなく感じなさいますか?
 けれども私たちに許されていることは「神様聖旨ならば二人を繋いでください」と祈ることだけです。けれどもそこに祈祷の微妙な力があるのではありますまいか。すなわち力ある祈りはエホバの御座を揺がすという言葉もあるように私たちは祈りによって、聖旨を呼び醒ますことができるのではありますまいか。祈りが熟したときに聖旨が生まれるのではありますまいか。祈りが聴かれるとはその間の消息を伝えた言葉でありましょう。もしも二人の愛が真に切実にして、深純なるものならば、エホバがそれを善しと見て祝福して許してくださるのではありますまいか。尊い恋は運命的の恋です。運命を呼びさますものは熱き祈祷です。祈祷は最深の実践的精神のあらわれです。
 清い、美しいお絹さん。祈りましょう。祈りましょう。私は希望を認めたような気がして今夜は心が躍ります。神さまに任して安らかに眠ってください。あなたははたらくこともよして、考え込んでばかりいらっしゃるという言葉は私を不安にします。病人は大切にしてやらなければなりません。
 マリアのようにやさしく、マルタのように面倒を忍んで、多くの患者を看護してやってください。祝福あれ!
[#地から2字上げ](一九一五・一一)
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 善くなろうとする祈り

     我建超世願、必至無上道、斯願不満足、誓不取正覚 ――無量寿経――

 私は私の心の内に善と悪とを感別する力の存在することを信ずる。それはいまだ茫漠《ぼうばく》として明らかな形を成してはいないけれど、たしかに存在している。私はこの力の存在の肯定から出発する。私はこの善と悪とに感じる力を人間の心に宿る最も尊きものと認め、そしてこの素質をさながら美しき宝石のごとくにめで慈《いつく》しむ。私は私がそのなかに棲《す》んでいるこのエゴイスチッシュな、荒々しい、そして浅い現代の潮流から犯されないように守りつつ、この素質を育てている。私はしみじみと中世を慕う心地がする。そこには近代などに見いだされない、美しい宗教的気分がこめていた。人はもっと品高く、善悪に対する感受性ははるかにデリケートであったように見ゆる。近代ほど罪の意識の鈍くなった時代は無い。女の皮膚の感触の味を感じ分ける能力は、驚くほど繊細に発達した。そして一つの行為の善悪を感じ分ける魂の力はじつに粗笨《そほん》を極めている。これが近代人の恥ずべき特色である。多くの若き人々はほとんど罪の感じに動かされていない。そして最も不幸なのは、それを当然と思うようになったことである。ある者はそれを知識の開明に帰し、ある者は勇ましき偶像破壊と呼び、モラールの名をなみすることは、ヤンガー・ゼネレーションの一つの旗号のごとくにさえ見ゆる。この旗号は社会と歴史と因襲と、すべて外よりくる価値意識の死骸の上にのみ樹《た》てらるべきであった。天と地との間に懸《か》かるところの、その法則の上におのれの魂がつくられているところの、善悪の意識そのものを否定せんとするのは近代人の自殺である。もとより近代人がかくなったのは複雑な原因がある。その過程には痛ましきさまざまの弁解がある。私はそれを知悉《ちしつ》している。しかしいかなる罪にも弁解の無いのはない。いかなる行為も十分なる動機の充足律なくして起こるのは無いからである。道徳の前にはいっさいの弁解は成り立たない。かの親鸞聖人を見よ。彼においてはすべての罪は皆「業《ごう》」による必然的なものであって自分の責任ではないのである。しかもみずから極重悪人と感じたのである。弁解せずして自分が、みずからと他との運命を損じることを罪と感じるところに道徳は成立するのである。
 多くの青年は初め善とは何かと懐疑する。そしてその解決を倫理学に求めて失望する。しかし倫理学で善悪の原理の説明できないことは、善悪の意識そのものの虚妄であることの証明にはならない。説明できないから存在しないとはいえない。およそいかなる意識といえども完全には説明できるものではない。そして深奥な意識ほどますます概念への翻訳を超越する。倫理学の役目は、私たちの道徳的意識を概念の様式で整理して、理性の目に見ゆるように(Veranschaulichen)することにあって、その分析の材料となるものは私たちのすでに持っている善悪の感じである。善とは何かということは今の私にも少ししかわかっていない。私は倫理学のごとき方法でこの問いに答え得るとは信じない。善悪の相は私たちの心に内在するおぼろ気《げ》なる善悪の感じをたよりに、さまざまの運命に試みられつつ、人生の体験のなかに自己を深めてゆく道すがら、少しずつ理解せられるのである。歩みながら知ってゆくのである。親鸞が「善悪の二字総じてもて存知せざるなり」と言ったように、その完全なる相は聖人の晩年においてすら体得できがたきほどのものである。すべてのものの本体は知識ではわからない。物を知るとは、その物を体験すること、更に所有《アンアイグネン》することである。善悪を知るには徳を積むよりほかはない。
 善と悪との感じは、美醜の感じよりもはるかに非感覚的な価値の意識であるから、その存在は茫として見ゆれど、もっと直接に人間の魂に固存している。魂が物を認識するときに用いる範疇《はんちゅう》のようなものである。魂の調子のようなものである。いなむしろ魂を支えている法則である。それをなみすれば魂は滅ぶのである。ある種類の芸術家には人生の事象に対するとき、善悪を超越して、ただ事実を事実として観《み》るという人がある。自分の興味からさようにある方面《ザイテ》を抽象するのは随意である。しかしそれを具体的なる実相として強《し》い、あるいは道徳の世界に通用させようとするのは錯誤である。ある人生の事象があれば、それは大きかったり、小さかったりするごとく、同様に善かったり、悪しかったりする。物を観るのに善、悪の区別を消却するのはあたかも物体に一つのディメンションを認めないようなものである。人生に一つのできごとがあれば、必ず一面において道徳的できごとである。しこうして私はそのザイテに最も重大に関心して生きねばならぬと感ずるのである。それはなぜであろうか? 私はよくわからない。おそらくこの価値の感じが、他の価値の感じよりもいっそう魂の奥から発するからであろうと思わるる。私たちが真に感動して涙をこぼすのは善に対してである。美に対してではない。もし美学的なるもの das Aesthetische と倫理学的なるもの das Ethische とをしばらく分けるならば、私たちの涙を誘うものは芸術でも人生でも後者である。美しい空を見入って涙がこぼれたり、調子の乱れた音楽を聞いて怒りを発したりするときでも私たちの心を支配している調子は後のものである。善悪の感じは私たちの存在の深き本質を成しているものであるらしい。私は芸術においてもこの道徳的要素は重要な役目を持つべきものと信ずる。私はこの要素を取り扱わない作品からほとんど感動することはできない。トルストイやドストエフスキーやストリンドベルヒの作に心惹かれるのはそのなかに深い善、悪の感じが滲《にじ》み出ているからである。「真の芸術は宗教的感情を表現したものである」というトルストイの芸術論がいかに偏していても、そこには深いグルンドがある。もとより道徳を説明し、あるいは説教せんとするアプジヒトの見え透くような作品からは、純なる芸術的感動を生ずることはできないけれども、たとい、その作には際《きわ》立った道徳的の文字など用いてなくとも、その作の裏を流れている、あるいはむしろ作者の人格を支配しているところの、人間性の深い、悲しい、あるいは恐ろしい善悪の感じが迫ってくるような作品を私は尊ぶ。けっしてイースセティシズムだけで深い作ができるものではない。もとより善、悪の感じといっても、私は深い、溶けた、輝いている純粋な善、悪の感じを指すのであって、世の中の社会的善悪や、パリサイの善をいうのではない。それらの型と約束をいっさい離れても、私たちの魂の内に稟在《ひんざい》する、先験的の善悪の感じ、それはもはや、けっしてかの自然主義の倫理学者たちの説くような、群居生活の便利から発したような方便的なものではなく、聖書に録されたるごとく、魂がつくられたときに造り主が付与したる属性としてでなくては、その感じを説明できないような深い、霊的な善悪の感じを指すのである。かかる善、悪の感じは、芸術でなくては表現することはできない。ドストエフスキーやストリンドベルヒ等の作品にはこのような道徳的感情が表われている。
 ここにまた一種の他のアモーラリストがある。それは世界をあるがままに肯定するために悪の存在を認めない人々である。およそ存在するものは皆善い。一として排斥すべきものは無い。姦淫《かんいん》も殺生もすでに許されてこの世界に存在する以上は善いものであるに相違ないというのである。この全肯定の気持ちは深い宗教的意識である。私はその無礙《むげ》の自由の世界を私の胸の内に実有することを最終の願望としているものである。しかしそれはけっしてアモーラルな心持ちからではない。世界をそのあるがままの諸相のままに肯定するというのは、差別を消して一様なホモゲンなものとして肯定するのとは全く異なっている。大小、美醜、善悪等の差別はそのまま残して、その全体を第三の絶対境から包摂して肯定するのである。その差別を残してこそ、あるがままといえるのである。ブレークが「神の造りたもうたものは皆善い」といったのは、後の意味での自由の地からである。ニイチェの願ったごとく「善悪の彼方の岸」に出ずることは、けっして善悪の感じを薄くして消すことによって達せられるのではなく、かえってその対立をますます峻しくし、その特質をドイトリッヒに発揮せしめて後に、両者を含むより高き原理で包摂することによって成就するのである。天国と地獄とが造り主の一の愛の計画として収められるのである。善を追い、悪を忌む性質はますます強くならねばならぬ。姦淫や殺生は依然として悪である。ただその悪も絶対的なものではなく、「赦《ゆる》し」をとおして救われることができ、善と相並んで共に世界の調和に仕えるのである。しかしその「赦し」というのは悪に対してむとんちゃくなインダルゼンスとは全く異なり、悪の一点一画をも見遁《みのが》さず認めて後に、そのいまわしき悪をも赦すのである。「七度を七十倍するまで赦せ」と教えた耶蘇《ヤソ》は「一つの目汝を罪に堕《おと》さば抜き出して捨てよ」と誡《いまし》めた同じ人である。「罪の価は死なり」とあるごとく、罪を犯せば魂は必ず一度は死なねばならぬ。魂はさながら面をつつむ皇后がいかなる小さき侮辱にも得堪えぬように
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