るよりも離れる方がむしろ愛にかなう道であるとすら考えられる。自分たちは多くの人々と接近しているときには不愉快になって脱れたくなるけれども、離れていると人懐かしくなる。人々の群れに近づいて常に不平と嫌悪との心で交わっているよりも、離れてみずからをソリチュードに置き、人懐かしい心で、常に愛と平和とを胸に宿している方がより優れた生活法ではないであろうか。ましてトマス・ア・ケンピスのごとく祈りのみが真の愛であると考えている者は離れて心を愛にみたし、霊魂の平和を保ち、はるかに祝福を人々に送りつつ「神よなんじのみ愛の実際的効果を生む力を持ちたもう。願わくば人々を恵みたまえ」と真心こめて祈る方がかえって愛に適う道ではあるまいか。巷《ちまた》に出でて万人と交わり道を説くことは自信ある人にできることであろう。しかしあたかも癩病人《らいびょうにん》の醜き身体を衆人から隠すごとくに自分の汚れた魂を他人から遠ざけることはふさわしき Humility ではないであろうか。みずから高きに居して群生を軽侮する隠遁はエゴイスチッシュであるかもしれないが後悔と羞恥とに満ちたハンブルな心ではるかに祝福を神に祈り求めつつ、自他ともにその霊魂の平静と純潔とを保たんための隠遁は謙虚な魂のおのずから求むる許さるべき生活法ではないであろうか。あたかも暗の光を恥ずるがごとくに醜き自己を隠したい気がする。そのときしみじみと静かな Refuge を求めたい気がするのである。自分はこれまであまりに人の心の扉をたたきすぎた。あまりに人の内面に立ち入りすぎた。それは純なる動機からであっても人の心を不安にし、本能的にその扉を閉じしめないではおかなかった。自分たちは他人がアクセプトしないのに愛の表現をしいることは押しつけがましき不作法である。山に隠れて雲霞を友として生きている仙人を無用意に驚かすことは心なき業《わざ》である。あるいはデリケートな傷つきやすい心を持ったもしくは「人見する」子供のごとき霊魂を持てる人をふいに訪れることは思慮ある行ないではあるまい。まして庵に籠《こも》り、戸を閉じ、幽《かす》かな燈火をかかげて、ただ自らの心に秘めたる思い出を回向《えこう》するために香を焚《た》いている尼姫をたとい純粋な愛の動機からとはいえしいて訪れてその秘密を打ち明けさせようとあえてするがごときは最も愚かな行ないであろう。孤独を欲する霊魂をして孤独を保たしめよ。隠れんと願うものをして自分の適する処にかくれしめよ。
隠遁はじつに霊魂の港、休憩所、祈祷《きとう》と勤行《ごんぎょう》の密室である。真の心の静けさと濡れたる愛とはその室にありて保たるるのである。
かの仏遺教経の遠離功徳分にあるごとく「寂静無為の安楽を求めんと欲す」る比丘《びく》は「当《まさ》に※[#「りっしんべん+貴」、第4水準2−12−70]閙《かいどう》を離れて独処に閑居《かんきょ》し」「当に己衆他衆を捨てて空間に独処し」なくてはならない。「若《も》し衆を楽《ねが》うものはすなわち衆の悩《なやみ》を受け譬《たと》えば大樹の衆鳥|之《こ》れに集ればすなわち枯折の患《わずらい》有るが如《ごと》く」また「世間に縛著《ばくちゃく》」せられて「譬えば老象の泥《どろ》に溺《おぼ》れて自ら出《い》ずる事|能《あた》わざるが如く」であろう。自分は「静処の人」となって「帝釈諸天《たいしゃくしょてん》の共に敬重する所」とならんことを希《ねが》うのである。
[#地から2字上げ](一九一五・一一)
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愛の二つの機能
愛は自全な心の働きであって、客観の条件によりて束縛せられざるをもって、その本来の相としなければならない。相手のいかなる状態も、いかなる態度も、いかなる反応も超越して、それみずから発展する自主自足の活動でなければならない。ゆえに純なる愛は相手のいかなる醜さ、卑しさ、ずうずうしさによっても、そのはたらきの倦《う》まざるものでなければならない。それは事実において至難なる業《わざ》ではあるが、私らの胸に当為《とうい》として樹《た》て、みずからの心を鞭《むち》打たねばならない。けれど、私がここに語りたいのは、この当為にはけっして抵触せずに、いなむしろこの当為を践《ふ》み行なわんために、愛より必然に分泌せらるる二つの機能についてである。それは祈祷と闘いとである。愛が単なる思想として固定せずに、virtue(力)として他人の生命に働きかけるときには、この二つの作用となって現われなければならない。
愛とは前にも述べしごとく、他人の運命を自己の興味として、これを畏《おそ》れ、これを祝し、これを守る心持ちを言うのである。他人との接触を味わう心ではなく、他人の運命に関心する心である。ゆえに愛の心が深くなり純になればなるほど、私たちは運命というものの力に触れてくる。そしてそこから知恵が生まれてきて、愛と知恵との密接な微妙な関係がしだいに体験せられてゆく。昔から聖者といわるるほどの人の愛は、みな運命に関する知恵によって深められ浄《きよ》められた愛である。耶蘇《ヤソ》の愛や釈迦《しゃか》の慈悲は、その最もよき典型である。愛がもし多くの人々のいわゆる愛のごとくに、他人との接触にインテレッセを置くものであるならば、そは甘く、たのしきものとして享楽せらるるであろう。アンナ・カレニナのなかのオブロンスキーが、「私は女を愛せずにはいられない」といったあのごとき愛や、女が「あなたは好きよ」というときの愛や、または普通の、百姓爺などを面倒くさがる男子が美しき女に対するときの愛などは、そのときの接触を味わう心であるがゆえに、運命や知恵や祈りとは何の関係もなしに済むであろう。けれど、もしも一人の少女をでも、私のいわゆる隣人の愛をもて愛してみよ。それはかぎりなき心配でなければならない。この少女の運命に自分があずからねばならない。自分のやり方でこの少女の運命はいかに傷つけられるかもしれない。いわんやときにはベギールデが働いたり、ミスチーヴァスな気持ちになりかねない自分らが、平気で少女に対することができようか。そのときもし私たちが真面目になるならば、自分たちの知恵と徳とが省みられるに相違ない。もっと自分に知恵があり、もっと心が清いならば、この少女の運命を傷つけずに済むであろうと。そして事実として私たちにこの自信のあることはほとんど不可能である。愛したい、けれど深い愛が宿らない。いかにせば愛の実際的効果をあげ得るかの知恵がない。力が足りない。そして他人の運命を傷つけることのいかに畏《おそ》るべきかを知れる謙虚な心には、これはじつに切実な問題である。そしてついに自分たちが人間としてもはや許されてないところのある限りを、まざまざと感ずるであろう。未来のことは自分のあずかり知るところではない。現在においても触れ合う人しか愛することはできない。そして触れ合うところの一人の生命すら、心ゆくまで愛されはしない。「一すじの髪の毛をだに白くし黒くする力」は持たない。私たちは自分の愛するものの不幸を目の前にして、手をこまねいて傍観しているよりほか何ごとも許されない場合に、しばしば遭遇する。そして静かに思えば、これまで幾人の人々と交わっては別れ、別れして、今はどこにいかなる生活をしているやら、わからない人々があることだろう。そしてそれらの人々をいかにして愛しようか。このときもし愛の深い人であるならば、堪えがたき無常を感ずるであろう。そのときほとんど私たちは愛する力も、知恵もないことを感ずる。そして、ただ愛したい願いだけが高まってゆく。――そして運命の力を感ずる。『歎異鈔《たんにしょう》』のなかにも、何人も知るごとく、
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慈悲に聖道浄土のかはりめあり。聖道の慈悲といふは、ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもふが如く助けとぐること、きはめて有り難し。また浄土の慈悲といふは、念仏していそぎ仏となり、大慈大悲心をもて、おもふが如く、衆生を利益するをいふべきなり。今生に、いかにいとをし、不便とおもふとも、存知のごとく助けがたければ、此の慈悲始終なし。しかれば念仏申すのみぞ、すゑとほりたる大慈悲心にてそうろふべき。
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と書いてある。私も親鸞《しんらん》聖人のこの心の歩みの過程に、しみじみと同情を感ずる。すなわち親鸞聖人は念仏によって完全な愛の域に達せんと望んだ。私はこの計画の実際的効果をまだ信じ得ないけれど、愛を思えば祈りの心持ちを感ぜずにはいられない。もとよりいまだこの祈り聞かるべしと信じての祈りではない。しかし祈りの心持ちを感ずる。そして私は今ではこの心持ちを伴わざる愛は、けっして深いものとは思われなくなっている。どうぞ私がこの少女の運命を傷つけませぬように! 昔あの海べで別れた病める友、今はどうしているかわかりませぬが、どうぞ幸いでいますように! 私は多くの忘れ得ぬ人々の、今はゆくえも知れぬ人々の運命を思うとき、しみじみと祈りの心持ちを感ずる。祈るよりほか何も許されてないではないか。そして、その祈りの真実聴かれると信ずる信仰家は、いかに祝福されたる人々であろうと思わずにはいられない。
また私たちは愛することは自由でも、愛を表現することは、もはや他人と関係したことで自分の自由ではない。他人が自分の愛を accept してくれないのに、愛を表現することはその人のわがままである。私のある友達が「彼に手紙を出したいけれど、よけいなことだと思われてはと思って差し控えている」といったと聞いて、私はその人の心持ちがよく理解できた。「私はあなたを愛します」といって、金を贈ったり、見舞いに来たりすることは、その人の自由ではない。いわんや「私はあなたを恋します」といって見知りもせぬ女に艶書《えんしょ》を贈り、それで何ものかを与えたごとく考え、その女が応じなかった場合には立腹するようなことは、最も理由の無いことである。私たちは温かな愛があっても、それを受けいれない人に、その表現を押しつけることはできない。かくいろいろと考えて見れば、私たちの愛の実際的効果というものは、じつに微弱なものである。ただ幸あれかしと祈ることのみ自由である。また愛はその本来の性質上、制限を超え、差別を消してつつむ心の働きである。程度と種族とを知らぬ霊的活働である。しかるに私たちの物を識る力は、時間と空間とに縛られている。時が隔たれば忘却し処が異なれば疎《うと》くならざるを得ない。死んだ啄木の歌に、「Yといふ字日記の方々に見ゆ、Yとはあの人のことなりしかな」というのがあるが、私たちはやむをえぬ制限から、そのようになってゆく。なにもかも過ぎて行く、けれどふと折に触れて思い出すとき、たまらない気がすることがある。そのようなときに私たちが祈り得たならば、いかに心ゆくことであろう。私たちは愛するときほど、人間を限られたるものとして感じるときはない。愛はただ祈りの心持ちのなかにおいてのみ、その全きすがたが成就するように思われる。私は祈りの心持ちに伴われざる愛を深いものとは思えない。昔から愛の深い人は、多くは祈りの心持ちにまで達しているように見える。深いキリスト教の信者には祈りが実際に聴かるべしと信じて、たとえば「あの友の病が癒えますように」と祈れば、もし神の聖旨ならば必ずその病癒ゆべしと信じている人がある由である。いかに幸福な心の有様であろう。私はまだとてもそこまではゆけない。しかし私は祈りの心持ちを強く感じる。愛を徳として完成する境地は祈りのほかにはないように思われるからである。
純なる愛は他人の運命をより善くせんとするねがいである。そのねがいは消極的にみずからの足らざるを省みる謙虚な心となって、他人の運命を傷つけることをおそれる遠慮となり、自己の力の弱少を感じては祈りとなる。けれどこのねがいは他の一面にては積極的に他人に向かって働きかけたい強い要求となって現われる。他人の運命に無関心でいられない心は、他人の生活に影響したくならずにはおかない。あの人は不幸であ
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