烽チたいないほど愛してくれる。それにもかかわらず自分は家から離れたい切なる願いを感ずる。自分は家の中にいて両親を見ていると胸が圧しつけられるような気がする。そしていつも不安である。すぐにも逃げ出したいような気がすることがしばしばある。早くあちらに行ってくれればいいと思う。そして去ればホッとする。何ゆえに自分はそのように感じるのであろうか。それには二つの理由があるように思う。一つは親の愛に満足できないため、他の一つは親を愛することのできないためである。そしてこの二つは自分に人間の淋しき運命、人間の愛の実力なき無常を感じさせるからである。自分は親の愛で満足することはできない。両親に対しては何の不足もない。むしろもったいなく気の毒に思う。しかしそれだからといってその愛で満足することはできない。自分の心には深い人間としての悲哀がある。自分はその悲哀で生きている。その悲哀が自分の生活、自分その者の本質を占めている。けれど両親はその本質に触れてくれない。それを理解してくれない。自分のその重要な部分、むしろ自分その者とは何の関係もなく生きている。その意味においてあか[#「あか」に傍点]の他人である。キリストが母にむかって「女よ。汝とわれと何の関わりあらんや」といったように本当に何の関係もないような気さえすることがしばしばある。始めからあか[#「あか」に傍点]の他人であるならばむしろいい。けれど対手《あいて》は世の中で最も近い密接なものと考えられ小さいときから一緒に暮らし、そして愛にみちているとみずからも許し、他人も認めている肉身の親である。その親に対してかかる感じを持つことは苦しい。しかも親の方ではそれを感じないで、なんとかすれば「親子の間だもの」などというのではないか。「親なんかそれくらいのものさ」と悟り切ってる人はいい。自分はいまだ悟りきっていない。それを悟ってゆくことは悲哀である。そういう淋しさは自分が深い悲哀に沈んでいるときに、母が来て自分を慰めてくれるときなどにことに深く感じられる。自分は母の言葉を聞きながら、「これが自分をいちばん愛するものの、一生懸命の慰めの言葉か?」と、思わず黙って母の顔を見入ることがある。そのようなとき、自分はじつに淋しい。自分はときどき思う。「自分はさまざまの悲哀を味わってきたが、自分の今の悲しみはもはや欲望《ベギールデ》のみたされざる悲哀ではなく、人間性の純なる念願の満たされざる悲哀に浄化されている。愛と運命との悲哀である。もはや私一個の悲哀でなく、人間のものとしての悲哀である」と。そして自分の悲しみが、かくのごとく、個性にはなれて普遍的なものになってゆくに従って、それは両親にはますます縁遠いものになる。それが理解されないで、手近のもので自分を慰めようとするのは無理のないことである。それだからといって淋しいのは淋しい。この間も自分がただ独り悲しみに浸っていたとき、母が来て、「おまえも淋しかろうからお嫁を持て」と勧めて行った。自分は後で深い寂寞に襲われた。これは自分のいちばん悲しいところに触れる問題であったからだ。自分は母の自分の心を汲むことの浅いのに腹立たしくなりさえした。自分は母からすすめられるまでもなく、嫁は持ちたかったのだ。けれどそれができなかったのだ。それは母は熟知しているはずである。自分の結婚問題が惨めに失敗したとき、両親のあきらめ方はまことに呑気なものであった。どうにかして彼女を嫁に貰ってやろうと骨を折ってはくれないで、すぐにあきらめさせてやろうとした。自分の結婚問題には気乗りがしなかったのだ。そしてそのことが自分にとってはどのような深い悲しみになっているかは思わないで、何の苦もなく今になってから自分に嫁を持てと勧める。それも自分で勝手に探して、私の病気などむろん隠して、世間並みの仲人結婚を勧めようとする。そのくせ自分がもし淋しさに堪えかねて一度でもトリンケンに行きでもしようものなら、どんなに厳しく叱るのだろう。そして自分はこの上もなくわが子を愛していると信じている。そして世間も許している。――「やめてくれ!」と自分は叫びたくなる。「自分はもっと深く考えて暮らしている。もっと真面目に悲しんでいる。ああ届かぬ、届かぬ親の愛よ!」
 しかし考え直してみれば親を責める気にもなれない。心では自分を愛してくれているけれども、知恵が足りないのである。人間が平浅なのである。自分は親がいかにして自分を慰めようかとあせるのを見るときに、そこにはわが子の心を悟ることもできず、世間の習慣を突き切るだけの勇気も無く、「自然」より子に対する本能を与えられて、それに束縛されて苦しめる、憐れむべき凡夫を目前に見る。それが自分の肉身の親である。しからばその憐れなる親を救う力が自分にはあるのか? いな親が自分に持っているだけの愛を自分は親に対し持っているのか? いな子供には親に対する本能を自然から賦与されていない。自分にどうして親を責める資格があろう。ここにおいて自分は親に対しても特別に親としての期待を持ち、親に親としての愛の義務を負わせることをしないで、隣人としての関係をもって対したくなる。そして親から受けている愛は十分に感謝し、親の不徳は不徳として認め、自分の親に対して愛の足りないことは、自分の不徳として謝したく思う。
 世の中には子供のエゴイズムは知っていても親のエゴイズムを知っている人は少ない。けれども親には子に対してどれほど多くのエゴイズムがあるであろうか。自分の恋が破れたのも彼女の母親の娘に対するエゴイスチッシュな本能的愛のためであった。親には子に対して自然から本能が与えられてある。親が子を愛するのは何の苦もなくすらすらと愛し得られる。特別に賞むべき行為とは思われない。それよりもその本能的愛が運命に対する知恵によって深められて、隣人の愛とならざる以上は、神に対し、子供に対し、また他人に対して種々のエゴイズムを生むのである。たとえば子といえども独立した一個の人間である以上は神に属している。その子供には神の使命がある。親がその点を考えないために子供の上に神意の現われんことを待たないで、みだりに自己の欲するままの傾向に育てようとする。そしてことにベルーフに関しては医者にしようとか法律家にしようとか勝手に決めようとする。聖書によればマリアはイエスがキリストとしての使命のあることを始めより告げられている。けれど、すべての母は皆マリアのような心地でその子を育つべきである。しかし事実はこれと反している。母親は本能的愛であたかも牝牛《めうし》がその犢《こうし》を舐《な》めるがごとく、自己の所有物のごとく、ときとしては玩具のごとく愛する。自己の個性を透し型にはめて愛する。もし隣人としての地位を自覚するならば子供の恋愛に対しても子供の自由を尊重すべきはずである。聖書にも「神の※[#「耒+禺」、第3水準1−90−38]《まぐ》わせたまう者は人これを放つべからず」と録してある。しかるに親は、ことに母親は自分の例でいえば、その娘の結婚に関して自分の個性、希望、趣味を透して干渉する。そしてそれを愛の名によってしながら自分の娘と娘の恋人とをいかに不幸にするかを考えない。もしそれ他人に対する親としてのエゴイズムを数えればじつにかぎりがない。多くの親にとって子に対する愛は他人に対するエクスクリュージョンである。自分は自分をあれほど愛してくれる親が他人に冷淡なのを見るときにあさましくなる。いな自分が愛されているのは嘘である。偶然である。母の人格に根をもたない、自然力の意志の現われであると思わないではいられない。そして憎まれているのと同じく不愉快を感ずることがしばしばある。そして自分はそのときしみじみと思う。本能的愛で愛したのでは愛するものと愛さるる者との本質は少しも結びつかってはいない。人間としての自覚体が人間としての自覚体を愛するのは隣人の愛でなければならない。すなわち認識に根を持った愛でなくてはならないと。私の親は人並み以上に本能的ないわゆる「子煩悩」な愛し方をする。それだけ自分は愛されていながらアンイージイである。自分の地位をかえって険悪に感ずる。自分はできうるかぎり隣人の愛で愛されたい。また自分も両親を隣人として愛したい。しかしながら両親と常に同じ屋根の下に住みながら、襁褓《むつき》の間より親子として暮らしてきた者が隣人の関係において相対することは至難である。いわんや親の方でかかる愛を理解しないときにはほとんど不可能といってもいい。このことは自分に家から離れたい願いを起こさせないではおかない。自分は家から離れて住み、隣人としての感じが沁み出るだけの距離を保つ必要を感ずるのである。
 しかしながら自分が離れて住みたいのは自分の骨肉からばかりでなく、また自分の隣人からも自分の姿を隠したい気がしみじみとするのである。第一に愛乏しく、神経質で、裁きやすい自分は人と交わっているときに自分の態度がまるで心の有様と一致しないアーチフィシアルな気がしてならない。自分は今ああいった。けれど心はその反対である。またいらっしゃいといった。しかしじつは送り出してほっとしたのではないか。私の思っているとおりは「あのような人とは交わりたくない。なるべく来てくれなければいいのに」である。けれど面と向かってはそのとおりをいえるものではない。もしいえば人の心を傷つける心なき業《わざ》である。その気まずさに耐えないばかりでなく、自分はそれを正直と感じるよりも不作法と感ずる。しかしながらときとしていかにも自分のいってることや態度が空々しい気がして耐えがたいことがある。元来自分は他人に対して要求が強いだけにたいていの人は気に入らない方が多い。心から交わりたいような人はきわめて少ない。ゆえに多くの場合には心にもない表現をしなければならなくなる。加うるに自分をして最も他人から隠遁せしめようと欲せしむる本質的な疑問は自分がかくして人と交わっても対手《あいて》の人に何ものかを与え得るであろうかということである。自分はこの点を深く反省するときにほとんど交わるゆえんが無いような気がする。第一心から愛に動かされないでいかほどのこともできるものではない。愛があっても知恵と徳とのとぼしい自分たちは他人と交われば他人の運命を傷つけないではおかない。与える自信よりも傷つける恐怖の方が強い。ことに自分は若い女と交わるときはこの感じが最も強い。自分は今では若い女を愛することは自分の手に余る仕事であると思っている。女に逢うと何もかも嘘になる。そしてたいがいは対手の運命を傷つけることになる。いかなる者をも避けないで交わるべきかいなかということは、じつは自分の徳の力量によって決定しなければならないことではあるまいか。「煩悩の林に遊んで神通を現ずる」ことのできるのはただ煩悩を超脱せる聖人のみである。桃水や一休ほどの器量なきものが遊女を済度《さいど》せんとして廓《くるわ》に出入りすることはみずから揣《はか》らざる僭越《せんえつ》であり、運命を恐れざる無知である。自分たちは万人を愛しなくてはならないが必ずしも万人と交わらなくてはならないことはない。対手の運命を傷つけない自信がないのに交わってはならない。加うるに自分は病身で不徳でかつかいしょ[#「かいしょ」に傍点]がなく、他人と交わっても他人の役に立つことができないのみか、むしろ負担になる。自分のある友は「彼と交わってよかったことは無い。自分は彼との交わりをシュルドとして感ずる」といったそうである。自分はそれを聞いたとき深く胸を打たれた。自分だってその人と交わりたくて交わっているのではない。交わらなくてはすまないと思って努めて交わっているのである。そして向こうでも同じことを感じているのである。自分はじつにあさましい気がする。そして自分の交友関係というものについて、そのなかにふくまるる虚偽と自偽と糊塗《こと》との醜さを厭う心をしみじみと感ずる。そして心を清く、平和に保ち、自他の運命を傷つけない知恵のために人を避けたい願いを感じないではいられない。いな交
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