ノこれまで幾度も立たれはしなかったろうか。また今のままでゆけば将来も立たれはしまいか。しかもその危険なことをあまり感じないで、この高級なる道徳上の罪を犯されはしないであろうか。で私のあなたにいいたいことを概念的にいい表わすならば、伝道的観念に対する自己内省を深くして欲しいのである。伝道とは自己の思想の普遍と永遠とを要求する心をいうのである。伝道は人心のはなはだ厳粛なる要求である。自己の分を知るものの軽々しくすべきものではない。一山の宗祖たり得るほどの偉大なる人格者のなすべきものである。伝道はじつに個人の内部生活の充実が覚えず知らずあふれ出でて人類を包む尊き現象である。ゆえに伝道せんとするものは、自己の内生命に対する自信と威力とがなければならない。「われかく信ず、ゆえに他人もかく信ぜざるべからず。永久にかく信ぜらるべきものなり」と主張するためには、自己の内生命のよほど充実完成していなければならないのはもとよりのことである。私は伝道の可能を信ずる。個性の多様性を認めながらも、なおそれを超越して、その奥にすべての生物(Lebenswesen)に普遍なるべき宇宙の公道の存在を信ずる。その公道を体験したるものは伝道することが能《で》きる。いな、伝道せずにはいられないであろう。キリストなどはそうであったろうと思われる。私は伝道を尊重する。精醇なる道徳性の普行としてこれを憧憬する。したがってその神聖を保ちたいと思うのである。
Y君、あなたは伝道的観念が強い(キリスト教を他人に伝道するということを直接に指すのではない)割合に自己生活の内省が深刻を欠いではいないであろうか。自己の生活について自信が強すぎはしまいか。自己の生活に威力を感じすぎはしまいか。試みにあなたの周囲を見たまえ。どこに肯定的な、自信のある、強い生活を送ってるものがあろう。淋しい、弱い、自信のない、大きな声を出して他人に叫ぶのは羞《はずか》しいような生活をしてる人ばかりではないか。そういう強い、肯定的な、力ある生活を送ろうと思ってあせりつつも、できないで疲労するものもある。廃頽《はいたい》するものもある。はなはだしきは自殺するものもある。あるいは蒼ざめて衰えてなお苦しき努力を続けてるものもある。人生はかぎりなく淋しい。あなたは少なくとも寂しい思索家などのいうことに、いま少し耳を傾ける必要はないであろうか。私はそれについてある実例をあなたに示したい。私の友人はさんざん行き悩んだ末、芸術よりほかに私の行く道はないといって、学校も欠席して毎日下宿屋の二階に蟄居《ちっきょ》して一生懸命創作をした。そして二百枚も書いた。私はこの頃世に出る片々たる短篇小説などよりどれほど優れてるかしれないから、完成されて発表してはどうかといっていた。ところがある日私がその家を訪ねて続きを見せろといったらもう止《よ》したといって淋しそうな顔をした。それは惜しいではないか。あれほど熱心に書いたのに、どうしたのだと訊《き》いたら「君、私の生活にはちっとも威力がない! 創作したって何になろう」といって顔をしかめた。私はそのとき二人の間に漂うた涙のない、耗《す》り切れたような悲哀と、また理解と厳粛とをあなたに味わわせたいと思う。
あなたはどうしてもいま少し深く内省する必要がある。声があまり大きすぎる。自己の生活にもっと空虚と寂寞と分裂とを意識せねばならないはずである。ややもすれば公けの会合などで奔走されるのを少し控えて、淋しい深い孤独な思想をいつくしむことを心がけなくては、あなたの道徳性というものは軽い、浅いものとなりはしないであろうか。道徳が social に拡がって行くことはよほど危険なことである。道徳において sociality ということはもとより大切であろうけれど、それよりも Inwardness ということの方がいっそう重要でありかつ用意的なものである。道徳が不純になり、固形体になるのは主として social に堕するからではあるまいか。精醇な、流動的な、光を発するような道徳は必ず自己内面の最深処より、実在の熱に溶かされ、自然の匂いの生々しいままで吹き出されるものであって、それ自身個人的にしてかつ野性的なものである。
あなたの茶話会の演説は私の予期したごとくモラーリッシュなものであった。熱心な真面目な言葉があなたの口を突いてきた。私は謹聴した。けれども私は終わりまで聞くにはよほどもどかしさを忍ばねばならなかった。あなたが割れるような拍手の音に迎えられて席に復したとき、私は不平な魯鈍な気がした(あなたが魯鈍なのではない。事件が魯鈍なのである)。後にはただただ悲しかった。あなたはみずから善人をもって任じていられる。それはじつにいい。私も昨年校友会雑誌に「善人にならんとする意志」という論文を書きかけたこともある。あなたがそうする心持ちはしみじみと私の胸に解《わか》る。私はモラーリッシュなできごとにいちばん興奮し涙を誘われるものである。それにもかかわらず、あなたの演説を聞いて私は握手を求めた手を叩き返されたような感に打たれた。
Y君、あなたの善の観念はあまりに常識的である。あまりに外的で既定的で社会的でかつ固定している。しかのみならず、その範囲があまりに狭い。あなたの持ってる善人の範疇《はんちゅう》からは私などはただちにはみ出されそうである。みずから Moralist をもって任じてる私を容れることができない。私ははなはだ服しにくい。元来、あなたの思想全体が範疇的なのである。たとえばあなたの告別の辞ははなはだよく昨年のと似ている。さらに一昨年のと似ている。何ゆえに歴代の総代は毎年同じように美しい感想を述べて本校を去られるのであろう。ときに一人くらいは懐疑や不安や不満を残して本校を去る人がありそうなものではないか。総代が虚言を吐いたのか。そうではあるまい。おそらく彼らは真実の感想を述べたのであろう。ただ彼らは物を感ずるのに赤裸々な自由な心をもってしない。ある既定的な型をもって感ずる。そして自分の感想が全体として型に入ってることを自覚しない。それだから毎年同じ感想が生ずるのである。放たれた、純な心で物象を感得することは容易なことではない。それには思索の練磨を要する。型を離れて純粋に事象を経験せんとする努力を思索というのである。囚《とら》われずに純粋に経験することは、思惟せずに偶然に物を感ずることではない。それはF・S君が「神の発見の過程」のなかに論じているように、思惟の凝視である。できるだけ注意して思惟することにほかならないのである。あなたなどは、思惟はものの真相を示すものではない、純なる感情で直感するのが真理であると思われるかもしれない。したがって思索家は囚われた物の感じ方をするものだ、知識に囚われてると思われるかもしれない。しかし思索せずにただ偶然に感情のままに事象を感受するならば、それはかえって型に篏《はま》って経験を受け取ることになるのである。かくて得られたる内容は真理でなくて常識である。私らが型を離れて純粋に自由に物象を感得するためには、思索せねばならないのである。あなたが思索を重んじられないために、あなたの思想は一般に型にはまっている。あなたの善の観念などもその例に漏《も》れず狭くして、固定せる常識的のものである。
善人になることはあなたの思ってるように容易なものではない。あなたは善人とならんとする意志さえあれば善人になれるように思ってるが、そんなに単純なことではない。なろうと思ってもなれない人がある。どうしていいか解らない人もある。また善人でなければ悪人というように明瞭に区別できるものではない。あなたは懐疑とか彷徨とかいう近代人のきわめて普通な生活をいっさい認められないように見える。あなたのように素朴に単純に神を信仰できる人はこの上はない。鮮やかな善の観念が頭に浮かんで、迷惑することなく右か左か行為を決定できる人はいうことはない。しかし、かかる驚くべき幸福を享受し得る人はきわめて少ない。少なくとも私などには不可能なことである。
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社会にはまだ道徳が発達しないんで善人が亡びて悪人が勝つような不合理なことがある。私はあくまで善人として進んでゆきたい。本校にも悪人が少数いるけれども、常に輿論がこれを導いて正しき道を離れないのは喜ばしきことである。しかしこの頃はだいぶ悪人がはびこってきたようであるが、まだまだ善人が圧倒されるようなことはない。本校に来て善良なる校風に感化されたのが多いけれど、なかには本校に来て堕落したものもある。たとえば本校に来てから酒を飲み始めたり、悪い場所へ平気で行くようになったものもある。本校三年の生活において得たところは非常に多いが、なかにも友情の美しいことを感じた。そして真友の二、三人もできたことは非常に嬉しいことである。ことに私は本校において生活の確信を得た。将来社会に出て戦うべき生活の自信を得たのは何より感謝するところである。
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あなたはほぼこのような意味の演説をされた。あなたのこの演説は私になんらの手応えある響きを持たなかった。ただ私にはもどかしい感じを与えたのみであった。私は「もっと、もっと」と始終思って聞かねばならなかった。それよりも私は筒袖姿の、健康な、青年らしいあなたを美しいと思った。願わくはこの青年の口から深刻な、懐疑的な、ロシアの青年のいうような言葉を聞きたかった。でなければ黙って立たせておきたかった。聴衆の大部分は常識で生きて行く人である。その人らにとってはあなたのこの演説はしごくもっともな、普通な、むしろ平凡な演説であったであろう。しかし、私にとっては、この短き演説のほとんど全面に懐疑と、不服と失望との種が横たわってるのである。その理由を私は今詳しく書いてあなたの生活を批評しようと思うのであるが、それにしてもあなたの住む世界と私の住む世界となんという大きな隔たりであろう。私はこうして筆を執りつつも、私の心持ちがあなたに理解してもらえるかどうかを心もとなく感ずるのである。
Y君、あなたは心の目をもっと深く、鋭く、裸にして人生を眺める必要はありはせぬか。常識を捨てたまえ[#「常識を捨てたまえ」に傍点]! この語をあなたの耳朶《じだ》に早鐘のごとく響かせたい。これが私のあなたに与え得る最高最急の親切である。常識はあなた自身の知識ではない。あなたの本性に内化せられたる知識ではない。それはじつにあなたの所有物ではない。社会と歴史との所有物である。常識で導いてゆく生活は自分自身の生活ではない。独立自由の生活ではない。生活の主体は社会と歴史であって自己はただその傀儡《かいらい》にすぎない。常識の効果はただこれに則って生活すれば共同生活において安全に生命を維持することができるということに存する。安らかに生命を保つ。そんなことを青年が考えるときではない。この命題を前提とするすべての思想を私らは当分|放擲《ほうてき》しなければならない。なんとなれば私らはこれよりもいっそう根本的なる急務を持つからである。すなわち生命に対する態度[#「生命に対する態度」に傍点]を決めねばならぬからである。安らかであろうが、危険であろうが、私らはまず生命という事実に驚異し、疑惑し、この大事実の意味を深く考えてみなければならない。しかる後燃ゆるがごとき熱愛をもって生に執着するもいい。呪うほどの憎悪をもって生を擯斥《ひんせき》するもいい。安らかに生を保つ計を立てるもいい。静かな淵のような目で生を眺め暮らすもいい。あるいは引きずられるように日々を生きてゆくもいい。ただすべての生活は自分のものでなければならない。たとい、自己の生活が社会と歴史とに拡がりゆくにしても、それは自己の生活が社会と歴史とを取りいれたのでなければならない。いかなる場合においても、生命の最高指導者が常識であってはならない。まずいっさいの社会と歴史とより与えられたる価値意識を捨てよ。天と地と数かぎりなき生物の間に自己を置け。しこうして白紙のごとき心をもて生命の
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