熾狽ノ湧き起こる自然の声に耳を傾け、外界の物象と事象とを如実に見よ、かくて感得したるおのれみずからの認識をもて生命の行く手を照らす人を自然児というならば、あなたは第一に自然児とならねばならない。
こんなことはいまさら聞かされる必要はないとあなたは思われるかもしれない。けれども私はこんなことをまだあなたにいわねばならぬのを悲しく思うのである。あなたはけっして Naturkind ではない。
たとえばあなたの善という観念は著しく既定的なものである。あなたの頭のなかにはおそらくは酒を飲むこと、勉強せぬこと、……応援に行かぬこと、……等は悪い、禁酒すること、旗を振ること、勉強すること、規則を守ること……等は善いというふうに、ぽつりぽつりと固形体のような概念が横たわってるのであろうと思う。けれども、そういう考え方はけっして正当なものではない。酒を飲むことがいいこともあれば旗を振ることが悪いこともある。個々の特殊の事情を見なければ解るものではない。何々するのは悪い、何々するのはいいというように大まかに概括的にいえるものではない。あなたの持ってる善の観念は大部分が常識であるかのように私には思われる。たとえば団体の存在を認めぬような思想を排斥する前にあなたは少しでも躊躇するであろうか。その思想とその持主の内生活との間に存する特殊の事情を顧みる暇を持ってるであろうか。
私は本校に来ても、あなたのようにみずから善良なる校風に感化せられたというような点を持っていない。また酒も飲むようになったし、あなたから見ればどうかと思われるような所へも平気で行くようになった。それならば私は堕落したのであろうか。あなたの演説のままを当て篏めれば私などはこの頃学校にはびこることをあなたの憂うる悪人であるかもしれない。しかし私はけっして中学校のときより堕落したと思うことはできない。いな、私は真面目になったと思ってる。生命に忠実になったと信じてる。酒を飲むようになったから真面目になったというのではない。それにもかかわらず、真面目になったというのである。酒を飲むとか、飲まぬとかいうようなことは私にはむしろどうでもいいことである。もっと大きな、深い根本的な点において私は真面目になったと信じるのである。
私は学校にはびこるのは私のような人ではなく、むしろあなたのような人だと思う。そしてそれを生命真実の発展のためによろこばしからぬ現象だと思う。じつに校内においてときめき栄えてるのはあなたのような人らではないか。私らは隅の方に圧し潰されそうになって、ようやく身を保ってるような形である。いくら叫んでも私らの声は通らない。試みに演壇に立ってみよ。君は聴衆を味方として感ずることができるであろう。私をしてあなたに代わらしめたならば疑いの目、冷たい目、嫌厭《けんえん》の目を顔に浴びねばならない。あなたの考えてるようなことは何の苦もなく発表できる。私の考えてるようなことはなかなか発表できない。こうして書いていてもこれが部長のところを通過するかどうか心もとないのである。校友の優しい目を予期して私が提供した、私にとっては一生懸命であった実際生活の報告書は私を囚人のごとき姿して、私を審《さば》かんとする校友の卓の前に立たせたではないか。私の先生の一人は晩餐会の席上、「いかがわしいことを書いた」というぼんやりした理由で私を学校の名誉を傷つけた不良少年とならべられたではないか。Y君よ、私らが何ではびこられるものか。それは安心してそれよりもあなたの周囲に、あなたの真面目な点だけを抜いた残りの部分だけあなたにはなはだよく似た人々のはびこることを私と共に心配したまえ。あなたの声望はあなたの周囲に子分を作った。私はあなたの周囲に漂う気分を好まないものである。それは真実なる生命の進転を妨げるものである。一高を化して常識の府となさんとする忌むべき傾向を孕《はら》んでいる。たとえばいわゆる演説家とクリスチャンの増加するのは私は眉を顰《ひそ》める。演説家はまだいい、クリスチャンの踵《きびす》を接して生ずるのは最も苦々しき事実である。一人の人間が信仰生活に入るのだって私は容易ならぬできごとだと思う。ほとんど奇跡に対するほどの驚異の目をもって見るべき大事実だと思う。それがどうしてわれもわれもと信仰生活に入ることができるのであろうか。信仰生活の大安心、大喜悦の中に入り得るためには、血を吐くような深刻な悩みと、砂漠をうろつくような彷徨と、大地のずり落ちるような不安と、盲目になるほどの迷いとがあるべきはずだと思う。どうしてそうやすやすと市街を歩いてる人がふと教会堂に入るように信仰生活に入ることができるのであろうか。私はどうしても理解することができない。私は彼らの信仰を疑わずにはいられない。キリストの人格を崇拝する点において私はけっして彼らに後れるものではない。私の行方《ゆくえ》にはキリストが立ってるとさえ思っている。ことに「愛」と「労働」とのキリスト教的精神は今私の生活の内に光を放ち始めんとしている。それにもかかわらず、私は本校のキリスト教徒を尊敬することができない。ああ、迷いが小さい。疑いが浅い。私らはもっと、もっとうろつこうではないか。肉を透して霊にゆき、迷いと悩みとをくぐって信仰に入ろうではないか。もっと強く、濃く、深く、鋭く生命を染め、穿《うが》ち、掘り込んで生きてゆこうではないか。「汝ら何すれぞしかく堕落を恐るるや」かく絶叫する予言者がわが校に出現せねばならないと思う。堕落を恐るる宗教は最も堕落したる宗教である。悪を容れ得ぬ善は最も内容貧しき善である。最も深遠なる宗教は堕落を包容する宗教である。最も豊富なる善は悪を持ちながらの善[#「悪を持ちながらの善」に傍点]である。『善の研究』の著者はオスカー・ワイルドの『獄中記』の例を引いて、
[#ここから1字下げ]
基督《キリスト》は罪人をば人間の完成に最も近き者として愛した。面白き盗賊をくだくだしい正直者に変ずるのは彼の目的ではなかつた。彼は嘗《かつ》て世に知られなかつた仕方に於て罪|及《および》苦悩を美しき神聖なる者となした。(善の研究――四の四)
[#ここで字下げ終わり]
といってる。あなたの宗教には肉の匂いと煩悩の痕《あと》と疑惑の影とがない。人間味が乏しい。あなたの善はあまりに狭くして固定している。流動の趣きと野生の姿がない。それというのもあなたの生活意識が常識的であって深刻と透徹とを欠くからであると思う。たとえばあなたは本校に来て友情の美しいのを感じ真友の二、三人もできたといわれるが、私から見ればこれらはあなたの生活意識の深刻と透徹とを欠いでる証拠だと思う。人と人との接触を今少し深刻に要求してみたまえ。そんな楽天的なことをいってはいられないことはないか。私は校内においてしみじみと孤独を感じるものである。私は理解していてくれる友は一人もない。軽《かろ》き接触の表面が潤うて少しじとじとすれば、それに美しき友情の名を被らせるのであるか。私には真友と名づけ得べきほどの友がただ一人ある。それは校友ではない。思うにあなたなどは、あなたのいわゆる二、三人の真友との間の友情そのものに関しては寂寞も苦悶もないのであろう。しかし、私と友との間にはどれほど友情の本質に関する寂寞と煩悶とが続いたことだろう。今もなおその踰《こ》えがたき溝渠《こうきょ》を思えば暗然とする。それは「三之助の手紙」のなかに詳しく書いたはずである。あなたのように人と人との接触に関して軽《かろ》い意識でいられればこそあんな楽天的なこともいえるのである。
何よりも校友に向かって感ずる私の第一の遺憾は生活意識の深刻でないことである。うやむやで生きてゆかれる人はしばらく措くにしても、いやしくも文芸家と道徳家とをもってみずから任ずる人に対しては私はいい分がある。文芸家には Morality が欠けている。単なる「歌うたい」や「詩造り」が多い。したがって「気分の芸術」はあっても「存在の芸術」はきわめて乏しい。あるいは遅るるを恐るるがごとくに読書し創作して余念のない人はある。けれども一生懸命生活してる人は乏しい。霊肉の資本《もとで》を払って、多大な犠牲を敢えてして、肉を耗《へ》らし、心を労して生活してる人はない。私は彼らに作品を提供するまえに、ただちに生活を提供せよと要請したい。それを思えば道徳家の実行的精神がどれほど尊いかしれない。けれども悲しいことにはその道徳は常識的、概念的道徳である。生命最奥の動乱より発するものではない。
次にあなたにいいたきことはあなたの生活はまだ素朴的センチメンタリズムの範囲を出ていないことはあるまいか。自然主義を潜らぬ前の感傷主義ではあるまいか。あなたの人生に対する態度はあまりに感激的である。涙が多すぎる。あなたの物を見るに用いる眼鏡は物象をあまりに美しく輝いて見せすぎる。今少し観照的の眼光を深くして外界をあるがままに見る必要はないか。醜きは醜きように、汚れたるは汚れたるように、如実に受け取る必要はないか。たとえば人を尊敬するにしてもあなたは節度を逸して崇拝し随喜しられるようなことはないか。私らから見ればそれほどまでには思われない人を、ほとんど狂熱的に崇拝せられる。人は各々偉いとする点を異にする。またおまえはよくその人物を知らないからだといわれればそれまでであるけれど、私などにはあなたに観照的な態度が欠けてるからだと思われないでもないのである。涙だってセンチメンタリズムの涙は信用できるものではない。私は幾度無知な、偽りな涙をこぼしたことであろう。まことしやかにみずから気づかずに、自分で自分に甘える涙を垂れたことであろう。涙を涸《か》らした、センチメントを抜いたショオの芸術の深刻を、人生の観方《みかた》を私はあなたに薦《すす》めたい。
Y君、私はまことに無遠慮にあなたの生活を批評した。私があなたの生活に対する疑問を誌上で公表したのは、私がヒロイックな精神に動かされたからである。あなたを中心として周囲に漂う気分が、校内に蔓延《まんえん》することを、「真新なる生活」のために憂えたからである。私はいま少し生活に対する批評的精神が校内に起こらねばならぬと思う。ただ私が懼《おそ》れるのは私がはたしてあなたを理解してるかどうかということである。もし私の理解が浅薄であるのならば、私は赤面してあなたに謝する。私はまだ書きたきことの多くを種々の事情で発表することができなかったのである。
あなたは今や美しき告別の辞を残して本校を去られるのである。この後といえどもあなたのいわゆる自信ある生活を続けてゆかれることと思う。私の無遠慮な批評が少しでもあなたに反省を促せば幸いである。私としてはあなたが新渡戸《にとべ》先生の宗教に赴かれないで、ドストエフスキーの宗教に入られることを切望するのである。あなたと肩を並べて卒業すべかりし私は、一年遅れ、また一年遅れることになった。私はまだまだ考えねばならない。あらゆる生物はただ生きてるがゆえに「生」に忠実でなければならない。ともに生きてるがゆえに他人の真摯なる生活の主張に傾聴しなければならない。私はあなたの私に教えられんことを求むるものである。終わりに臨んであなたの生命の真実なる発展をいのる。
[#地から2字上げ](一九一三・六・五)
[#ここから1字下げ、折り返して2字下げ]
付記。自分はこの文章に対してY君から一つの手紙を受け取った。それは本当にキリスト者らしい、謙遜な、少しも反抗的な気分の含まれないかつ美しい知恵に富めるものであった。その手紙はその後の自分に深い、いい影響を及ぼした。自分は数年後広島の病院から君に自分の不遜を謝する手紙を送ったのに対して、君はまたじつに美しい手紙をくださった。そして自分を青年時代の恩人の一人に数えてくださった。自分は君の名誉のためと、君に対する自分の敬意を表するためにこのことを付記することを禁じ得ない。自分が今日キリスト者に対して、あるツァルトな感情を抱いているのは君に負うところが多い。自分はこのことを感謝
前へ
次へ
全40ページ中16ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
倉田 百三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング