フものを大なる事実であり、目的であると考えたい。たとえば相愛する女と月白く花咲ける籬《まがき》に相擁して、無量の悦楽を感じたとする。このときの情緒そのものが大なる目的ではないか。この情緒の構成要素としては女の心の態度、用意、気分またはその背後に潜む至情が必要であるとともに君の心のこれらの者も同時に必要である。この際しいて女を手段と見るならば、君自身をも同様に手段と見ねばなるまい。君は自他の接触をばあまり抽象的に観察してはいまいか。愛らしい女がいるとする。これを性欲の対象として観るとき、そこに盲目的な、荒殺の相が伴う。これを哲学的雰囲気のなかに抱くとき、尊き感激は身に沁み渡って、彼女の長き睫《まつげ》よりこぼるる涙はわれらの膝を潤すであろう。虞美人草《ぐびじんそう》の甲野さんが糸子に対する上品な、優しい気持ちこそわれらの慕うところである。私は君との友情のみはあらゆる手段を超越せる尊厳なる目的そのものだとしか思えない。君よ! 哲学的に分離せんとしたわれらは再びここに哲学的に結合しようではないか。哲学の将来はなお遼遠である。ともに思索し、研究し、充実せる生を開拓しよう。この頃私は「生きんがた
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