批難」のなかの一節に次のごとく書いている。「面会日を厳守するのはおそらく最上の生活法ではあるまい。釈迦やキリストはきっとそういう生活法を嫌ったであろう。それを気にしつつやむを得ず決めているのはいい。それを当然と思っている人は、おそらく人と人との接触、天国の空想に鈍い人だろう。釈迦やキリストの域には上れない人だろう」。自分は今でもこの一節を少しも取り消さなくてはならないと思っていない。しかし自分は面会日を決めたのである。そしてこのことは自分には深く気にならずにはいられない。それは自分に、自分の日々の生活における他の、じつに多くのこれに類する限界の意識を連想せしめる。ときには、無常の感じにさえ深められる。本来「隣人としての愛」においては、甲を愛することは乙を愛することと原理上、また心持ちの上からも少しも矛盾するものではない。もし自分に千手観音のごとく千本の手がありさえすれば、万人の個々の人を、自分が最も親近な、常にともに棲んでいる特殊の隣人――家族を愛するようにしみじみと、行き届いて愛することができるはずなのである。しかし事実としては、自分が相当に愛の奉仕をなしていると思うことのできるほど
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