に来ると涙がこぼれる。独りで祈ってるときはさほどでない。皆と一緒に祈ると涙がこぼれる。互いに罪を犯さずにはいられない呪われたる人間の子孫たちが、神の前に出て互いに赦して祈るのだと思うと私は深く感動する。そしてこのときばかりは、黙祷でなくピープルとともに神を拝する教会の存在の理由があるように感じる。私はみずからを省みてばかりいれば他人に対して何ごとをも働きかけることはできず、じつに心中不自由をきわめ、しかもそのような心構えがあっては人と人との交わりの自由な楽しさは失せてしまうことを惜しむがゆえに、この頃は親鸞聖人のようなものの考え方がなつかしくなりだした。たとえば友達に冗談のいいたいときにはこう思いたい、「私はどうせ間違いだらけである。いま悪くいわないにしても外に悪いことをいわないというのではないから、いわして貰おう」と。もし愛の心を深く知り、互いの運命をおそれていれば、それ以上は相互の理解の上に「赦し」を期待して、訴えもし、責めもし、冗談もいいたい。その間の表現は自在を極めるに至るこそ人間と人間との接触の理想であろう。魚住氏が「ケーベル先生の前に出れば自由になれる」といっているがその幸
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