に受け取ってくれる人の無いのはじつに淋しい。私自身もだんだんに求め訴える気がしなくなってゆく。人生のつめたいことを知り人心の信じがたきことを知れば知るほど求める気のなくなるのはじつに無理からぬことである。人を見れば親切にはしてくれぬものと思い、女を見れば愛してはくれぬものとあきらめるようになってゆく。あの『死人の家』に出る犬が人を見れば打たれるものと決めてドストエフスキーの目の前でも寝転んで鞭を待ち設けた、というように、私たちも初めからあてにはせぬようになってゆく。けれども思えばそれは善い傾向ではない。ドストエフスキーはシベリアの牢獄で囚人らから排斥せられたときにはそれを白眼でも見ず、また超然として、荒々しく、内心で侮辱してもすまさず、心から悲しきことに思ったのであった。それは真面目な善い心である。訴えることは弱いことではない。与えてくれねば悲しむがいい。そしてやはり求めるがよいと思う。まれに愛を用意している人に出逢うときには、そのような善い心は雨の畑の土に吸われるように潤されることができるからである。「求むるものは幸いなり。そは与えらるべければなり」と耶蘇がいったのはこの純な心と心と
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