さえほとんど不可能な至難なことである)人間としての徳が完成していない。さらに受け取ることの自由を得んと努力しなければならない。実際近代人はパッシーブの徳においてことに貧弱である。信じがたい、受け取りがたい、堅い、狭い魂である。もっと魂の口を開いてすらすらと受け取ることはできないものであろうか。求めず、訴えず、信ぜず、受け取らず、海底の貝殻のごとくに孤立しょうとする。それは二十世紀の最も大きな悪い傾向である。これというも人間があまりにしばしば互いに欺き、惜しみ、裁いたからである。一言にいわばエゴイスチッシュになったからである。
ツルゲネフの小説に「徳」たちが天国で出逢って互いに挨拶をしたときに、二人の互いに見知らぬ顔の(Tugend)があった。一つは「慈悲」で他の一つは「感謝」であった、という話があるそうであるが、今の世の中ではこの最も親しかるべきはずの愛と感謝とが出逢うことが最も稀であるように見える。そして愛しても受け入れられないほどの悲しいことがあろうか。ロバートソンの説教にあるようにキリストの最も淋しかったことは自分の愛を人々が受けいれてくれないことであったであろう。与えたいとき
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