るものならば皆あきらめる。しかるにどうしてもあきらめられない、それをあきらめては私たちの本質の死ぬる願いがある。それは愛である。愛することと愛されたい願いである。現実においてこの願いはみたされないとみたのは親鸞であった。ゆえに彼は宗教の彼岸においてこの願いをみたさんことを工夫したのである。絶対に仏に愛されることと、成仏して絶対に衆生を愛することとを信じたのである。私たちは愛されたい願いと愛したい願いとを持っている。この願いはけっしてあきらめられず、またあきらめてはならないものである。私たちは与えることと受け取ることの自由が得たい。与うることの自由とは客観の原理に束縛せられずして独立に与うることである。与えることの自由を得んことは、深い人はみな憧れ求めている。ここでは私たちは特に受け取ることの自由について考えたい。対人関係の徳として受け取ることは与えることよりも小さいものではない。私たちは受け取ることの徳を得ないならば偉い人間とはいえない。人間と人間との接触の滑《なめ》らかにゆかないのは一つは近代人が受け取ることの徳を持っていないからである。人の愛を受け入れない、ある人は求めず、与えず、
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