とをも共生《ミットレーベン》するならば、肉交にかぎらずインニッヒになる。肉交すればインニッヒになるかもしれない。けれど、肉交そのものは愛の表現ではない。あるいは愛と性欲とをそのように切り離して考えることはできない、という人もあるであろう。けれど私はこの精神作用のなかに本質的な区別を感じわけることができると思う。私はいかなる場合にでも、夫婦の間でも、相愛の間でも肉交は絶対に悪であると信じている。「愛のない肉交はしたくない」この言葉はしばしば聞く。しかし愛があっても肉交してはいけないのである。これは因襲でも概念でもない。肉交そのものの経験より発する実感に根をおいての主張である。仏者が女人を禁じたのは肉交そのものが悪いからである。キリストがマタイ伝に「およそ女を見て色情を起こすものは心の内すでに姦淫したるなり」といったのはけっして道徳の理想として厳重すぎてはいない。キリストの思想を純粋に守れば性欲はいかなる場合にも悪だからである。ある人はそれでは子孫ができない、人類は絶滅するというかもしれない。しかしたとい人類が絶滅しても悪は悪である。あたかも他の生物を殺さなければ人類は絶滅するけれども、殺
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